現地県系人「命の恩人」 収容所へたばこや弁当
浦添市経塚の渡久山盛吉さん(89)は、所属していた陣地構築部隊で唯一戦渦をくぐり抜け、捕虜となった。今も、人権やプライバシーもない屈辱的なハワイ移送船での体験と、現地で触れた県系人の優しさが表裏一体の記憶として脳裏に焼き付いている。
1945年6月、日米間の戦闘が一層、激しくなる中、転がる死体を避けるように歩を進め、塹壕(ざんごう)に身を潜めるなどして必死にわが身を守った。だが、一日橋辺りで米軍に拘束された。当時18歳だった。
約1カ月間、旧金武村の屋嘉収容所で過ごした後、全身の毛をそられ一糸まとわぬ姿のまま「地獄船」でハワイへと連行された。生きて捕虜となるのは恥だとされた時代だった。だが「あの時の選択は間違っていなかった」と断言する。
灼熱(しゃくねつ)の太陽が照りつける7月のある日、船は約20日間の航海を終えハワイ・オアフ島に到着した。渡久山さんの目に映ったのは、焦土と化した郷里とは比較にならないほど活気があり、物資に恵まれた敵国の領土だった。
収容所に入ってからは、主に真珠湾(しんじゅわん)周辺や軍施設外の清掃に当たった。清掃業務は大変だったが、収容所には捕虜となった同郷の身を案じた県系人が訪れ、弁当やたばこを差し入れしてくれた。中には傷ついた心を音楽で癒やしてもらいたいと、三線を届ける者もいた。
特に現地でホテルを経営する「安慶名シュウイチさん」という県系男性は、渡久山さんにとって思い出深い。ある日、いつものように捕虜仲間10人とトラックに乗せられ作業場へ向かっていると、安慶名さんが突如道路に現れ、トラックを止めた。安慶名さんは運転席の米兵に金銭を手渡し、夕方まで捕虜を任せてほしいと交渉。そして、渡久山さんたちに豚肉料理など古里の味をたらふく振る舞った。
「県系人は皆、とにかく優しかった」。彼らは「命の恩人」であり、敵国に連行され、不安を募らせていた渡久山さんたちの心の支えでもあった。一方で、県系人らも渡久山さんら捕虜に会うたびに沖縄戦の状況や、故郷に残してきた親族の安否について熱心に聞いてきた。「苦境にあってもお互いを思いやる、ウチナーンチュの優しさを見た」と振り返った。
「3千余の県人が異国の地で抑留され、県系人に助けられた事実を風化させてはいけない」との思いから、渡久山さんは帰国後、収容所での生活や当時の思いをつづった歌「PWあわりなむ」を作った。
今でも時折、当時を思い出す。6月にハワイで開かれる捕虜収容所県出身戦没者慰霊祭へは体力的な負担を危惧し、参加を断念した。渡久山さんは無念さをにじませながら「あと5年開催が早ければ…」とつぶやいた。
異国で無念の死を遂げた同胞の冥福を、渡久山さんは沖縄から静かに祈る。
(当銘千絵)