決裁文書に祖父の名 慰霊の思い、父の分も
今年1月中旬、県庁の居室でいつものように決裁文書をめくっていた県子ども生活福祉部長の金城弘昌さん(57)は思いがけない事実を知った。ハワイ捕虜収容所県出身戦没者慰霊祭への協力を求める文書に、祖父・永保さん(享年43)の名が記されていた。「息が止まるほど驚いた」と金城さんは振り返る。
文書には沖縄戦で捕虜となり、移送先のハワイで亡くなった12人の名が記されており、永保さんもその一人だった。5年前に亡くなった父・甚永さんから南風原町津嘉山出身の祖父がハワイで亡くなったことは聞いていた。しかし、沖縄戦で捕虜となり、ハワイに連行されたことは知らなかった。
金城家の長男だった甚永さんは戦中、単身で熊本に疎開した。沖縄に残った祖母ときょうだい7人全員は45年5月25日、南部の防空壕(ごう)入り口で米軍の爆撃を受け、犠牲となった。甚永さんは一人残され、孤児となった。
「記憶を呼び起こすには、あまりにもつらい体験だったと思う」。祖父母やきょうだいのことを一切語ろうとしなかった父の心境を、金城さんは察する。
4月に入り、ハワイでの慰霊祭開催を計画する渡口彦信さん(90)と面会した。その時、渡口さんから差し出された1982年の新聞記事で、60年ごろ甚永さんの元に当時の厚生省から永保さんの死亡通告書と、髪と爪が入った小さな木箱が送られていたことを知った。祖父は原因不明の出血死でこの世を去っていた。
金城さんは半世紀近く前の父の姿を思い出す。「このころから、父はハワイに行きたいと言い出していたはずだ」
金城さんは今、凄惨(せいさん)な戦争の歴史を刻む平和推進事業を手掛ける業務に携わっている。「この職に就いていなければ、祖父の最期を知ることはなかったと思う」。引き寄せられる運命の巡り合わせは「父からのメッセージに違いない」。
4日の慰霊祭には公務ではなく私人として、家族4人で出席する。祖父の供養をできぬまま他界した父の思いも重ね、金城さんは3千人余の県人の汗と涙が染み込んだ「虹島」の大地を踏みしめる。
(当銘千絵)
(おわり)