嘉手納基地に飲み込まれた“生まれジマ” 知念文徳さん

 「野里はウージ(サトウキビ)畑が広がる豊かな土地だった。集落の東西南北にサーターヤー(製糖工場)があった。今、小さな家庭菜園の水やりをしていると、あのころの大きな畑を思い出す」

 


子どもも女性も飛行場建設に動員

 


戦前の故郷の写真を見て「ここに家があった」と思い返す知念文徳さん=2017年5月、嘉手納町嘉手納(又吉康秀撮影)

 知念文徳さん(86)の生家があった野里集落はいま、極東最大の空軍基地と言われる米軍嘉手納基地の中にある。昼夜を問わず米軍機が発着する滑走路のそばに建つ管制塔の位置に知念さんの生家があった。

 戦前の集落名は「北谷村野里」。沖縄戦で集落は丸ごと基地の中に飲み込まれた。知念さんは自分のことを「避難民」と呼ぶ。「生まれ育った家に戻りたい。その気持ちはいくつになっても変わらない。かなわないのは分かっている。仕方ないから避難民として家を建て、暮らしている」

 8歳の時、日本の統治下にあったマリアナ諸島のテニアンに移り住み、1944年3月に引き揚げた。間もなく陣地構築が始まり、知念さんは現在の嘉手納基地内にあった「中飛行場」の建設に駆り出された。子どもや女性も作業に動員された。青年男子は既に軍隊に取られていた。

 


日本軍が構築した中飛行場を占拠し、さらに拡張する米軍。後方の滑走路からは飛行機が飛び立っている=1945年5月17日(沖縄県公文書館所蔵、米軍撮影)

 日本軍が飛行場を造るため村民の土地を接収した。家や畑がつぶされた。「全部壊すんだよ。山も人の家も。畑を切って、捨てて、飛行場になった」

 住民を徴用してやっと造った飛行場は日本軍が使うことはなく、45年4月、米軍は上陸後すぐに飛行場を占領し、整備拡張した。あっという間に米軍の出撃拠点となった。それが現在の嘉手納基地である。

 米軍上陸の数日前、知念さん一家は本島北部へ逃げた。食糧を探しながら、羽地村(現名護市)川上の山中をさまよった。やっと見つけたイモは腐って糸を引いていたが、構わず食べた。車のタイヤの跡にたまった水を飲み、ソテツで飢えをしのいだ。

 米軍に捕まった後は久志村(現名護市)や宜野座村の収容地区で暮らした。戦後、テニアンに残った兄2人が手りゅう弾で自決していたことを知った。

 敗戦から数年後、集落があった中部地域に戻れることになった。喜びは相当なものだった。「お祝いをするほど、うれしい気持ちだった。生まれジマ(故郷)に帰れるのだから」

 


手が届かない故郷 本当は帰りたい

 


「生まれジマがいい。戦争を知っている人はみんなそう思うよ」と話す知念文徳さん=2017年5月、嘉手納町嘉手納(又吉康秀撮影)

 しかし、緑豊かな野里の集落は既に基地となっていた。知念さんの生家があった土地は住民の立ち入りが禁じられ、思い出に残る「生まれジマ」は、手が届かないフェンスの向こう側になった。

 野里の住民は広大な嘉手納基地をはさみ南側の旧北谷村と分断され、北側の嘉手納村に組み込まれた。周辺の土地を分けられ、かやぶきの家を造った。嘉手納基地からアメリカ人が捨てた木材を担ぎ、資材にした。

 十数年後、軍の作業員として基地内に入った時、集落があった場所を近くで見る機会があった。幼いころ、水遊びをしていた「野里橋」の石垣を見つけて懐かしく思った。立ち入れない故郷を今も思っている。「本当は帰りたい。向こうに」とつぶやく。

 


現在の嘉手納基地。町面積の82%が米軍基地に占められている=2014年7月28日(花城太撮影)

 だが、米軍嘉手納基地は返還が見込めない。「私は諦めている。なるべくは自分の集落がいいさ。人の集落に厄介かけるよりは自分の故郷があるのだから。でも年も年だし、考えない方がいいとも思う」と複雑な心境を吐露する。

 戦争により家族を亡くし、故郷を追われた知念さん。「戦争は絶対したくない。出たくもない。考えたくもない」。強い口調で語った。

(清水柚里)


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