黒島春さん(88)=石垣市=は八重山高等女学校の1期生で、戦時中は従軍看護婦として石垣島の野戦病院で勤務し、兵士の死を目の当たりにしました。青春を戦争に奪われた当時16歳の黒島さんの戦争体験を、八重山高校2年の西里奈津希さん(16)と仲本泰洋さん(17)が聞きました。
《太平洋戦争の勃発で静かな石垣島にも戦争の足音が近づいてきます》
女学校に入ったころから「欲しがりません勝つまでは」という言葉を石垣でも聞くようになりました。婦人部が割れた鍋とか家々にある鉄製の物を集めていきました。消火訓練や竹やり訓練も始まりました。消火訓練は水が入ったバケツを隣組の人で回す訓練で、今考えると、火を消すには到底間に合わない。ばからしいことをやったんです。
近所の人が集まってお茶を飲んで話をしていると、あるおばさんが「いざとなると誰が火なんか消すか。竹やりで人が殺せるのか。自分の子を連れて逃げるだけで精いっぱいだ」と言いました。
あの時は「ものが分からないおばさんだね」と思っていましたが、今では命や真実の尊さをはっきり言える偉いおばさんだったと思います。
《1943年、黒島さんは女学校2年になります。2学期ごろからは、旧石垣空港の場所にあった海軍南飛行場の建設作業に駆り出されます》
週に2、3日は飛行場造りの作業があったと思います。クバ笠をかぶって、くわで掘っていました。その時ぐらいから英語の教科は、敵国の言葉だからとなくなりました。だから英語は1年生で習った「ペンシル」とか「ガール」くらいしか私は分かりません。
そのころから日本兵や朝鮮の人の姿もよく見掛けるようになりました。朝鮮の人も飛行場建設作業をしていました。
《44年10月12日、米軍機の姿を初めて見ました。空襲が始まったのです》
午前8時30分すぎ、朝礼で校長が訓示をしていた時です。4機編隊の飛行機が飛んできました。日本軍は3機、米軍は4機編隊と聞いていました。「あれっ」とみんな驚き、低空飛行の飛行機の羽を見ると星印が描かれていました。一生懸命逃げましたが、私がいた所には爆弾は落とされませんでした。偵察機だったのでしょう。この日から空襲が始まります。
役場が空襲警報のサイレンを鳴らすと、みんな防空壕に逃げ込みました。私はおばあさんと2人で住んでいたのですが、2人だけでは怖いので、ずきんと非常袋を持って丈夫な隣の家の壕に入りました。学校のテスト中でもサイレンが鳴ると防空壕に逃げました。「お母さん助けて、神様助けて」と小さな声で祈りました。
《戦争が激しくなった45年2月~3月に看護術を学びます。従軍看護婦として4月には、野戦病院に配属されることになりました》
陸軍病院から軍医が看護術を教えにきました。看護術といっても包帯やギプスの当て方、患者を担架で運ぶ方法という本当に簡単なものでした。開南の野戦病院への移動を命じられ、昼は飛行機から見えるので、私たちは夜に歩いて移動しました。私は薬室への配属となりました。
※続きは7月12日付紙面をご覧ください。