安里誠晁さん(80)は1936年、世界遺産・中城城に近い北中城村大城に生まれました。沖縄戦が始まった時は喜舎場国民学校の2年生でした。当時、旧制開南中学校に通っていた兄を戦争で亡くし、弟や親戚も避難先のやんばるで、マラリアのために亡くなりました。安里さんの話を北中城高校2年の玉那覇りおんさん、1年生の新垣優香さんが聞きました。
《安里さんは沖縄戦当時は国民学校に通う児童でした。沖縄に悲惨な地上戦が迫っているとは知るよしもありませんでした》
私は1943年に喜舎場国民学校に入学しました。私は戦場には行きませんでしたが、それでも1年生の後半からは竹やりの訓練がありました。
2年生の時です。那覇から夜通しで歩いてきた日本兵が大城に到着しました。日本兵は疲れた様子で、部落内の道や公民館などで休んでいました。
夜明けと同時に、部落の向上会会長をしていた父の元に将校が訪ねてきて「沖縄を守りに来たので民家を貸してほしい」と要望しました。父は区長と連絡を取って手分けをして民家を手配しました。
《防空壕を造りました。住民生活が不自由になっていきました》
大城に来た日本軍は戦争に備え、木でできた模型の戦車を作っていました。米軍が攻めてきた時にはこの模型戦車に的になってもらい、こちらの被害は出さないまま米軍の弾を減らそうと考えたようです。私たちもこの模型戦車を押すのを手伝い、日本兵から乾パンをもらいました。
いつでも逃げられるよう防空壕がどの家にも造られていました。うちも当初は屋敷の裏にありましたが、後に正面のガジュマルの木の下に移しました。ガジュマルの固い根が張っていて、振動にも耐えられると考えたのでしょう。
夜は外に光が漏れないよう、ランプに布のかさを付けていました。掛けていないと地域の人でつくる警防団が入ってきて「消しなさい」と言ってきます。自分の命は自分で守らなければいけませんでした。
※続きは7月26日付紙面をご覧ください。