1300人の証言 後世に 生涯かけ集めた遺志継ぐ[平和どう伝えるか 広島・長崎から]2


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 沖縄の被爆者。この男性もそのお一人だ。糸満市で7人兄弟の次男として生まれ、地元の小学校を卒業し、郷里で働いた後、16歳の時に130人の仲間と共に三菱重工業長崎造船所に就職した。造船所構内で被爆した時は22歳。造船中の船から降りて道具を交換しに行こうとした折、「ぱかーんと音がして、ふわふわ、ふわふわして、上からも人間が落ちてくる。爆弾にしてはおかしいなと思って、向こうを見たらオレンジ色みたいな色が映っている、真夏の沖縄の太陽、ちょうどあんなものだった」。この男性は1923年生まれ、74年51歳の頃の証言である。聞き取ったのは伊藤明彦という人物だ。

◇メディアの怠慢

 伊藤氏は長崎で育ち、8歳の時自身も入市被爆(被災後に立ち入って被爆)した。大学卒業後に長崎放送に入社。被爆証言を後世に残そうとラジオ番組を企画、初代担当となったものの、支局へ異動を命じられ番組担当を外れることになった。ならばと放送局を退職し、自身のライフワークとして被爆証言の収集と保存の道を歩くことを決意した。

千葉で行われた9条世界会議会場で、ウェブサイト「被爆者の声」を案内するチラシを配る伊藤明彦さん(左)=2008年5月、千葉県の幕張メッセ

 70年代、キャバレーの皿洗いなどのアルバイトで食いつなぎ、広島・長崎はもとより、沖縄から青森まで21都府県を巡り、被爆者に会い続けた。伊藤さんは、長崎のキリシタン弾圧の記録が少ないことに対して「メディアの怠慢」と指摘し「メディアに関わった者として、被爆者の記録は残さなくてはならない」と話していた。そこには、米ソの対立という時代背景に「このままだと再び核兵器が実際に使われかねない」という思いもあったことだろう。

 伊藤氏が集めた証言者数は1003人、広島・長崎に加えて第5福竜丸も取材した。一方、およそ同数の千人ほどから断られたという。無理もない。被爆者自身が結婚前や、適齢期の子を持つ世代。被爆者であることを隠して生きることを強いられていた。

 伊藤氏は、80年代を編集・発表の期間にあてる。オープンリール版「被爆を語る」(52巻)、89年にはカセットテープ版「被爆を語る」(14巻)を制作した。そして2006年には、ステンドグラスのかけらをちりばめるようにして被爆の実相を描き出そうと試みたCD作品「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」(9枚組、約8時間40分)を作り、これらを全国547の個人・団体などに寄贈した。

◇来訪者の協力

古川 義久

 伊藤氏の活動を新聞記事で知った私は、伊藤氏に音源をインターネットで公開することを提案した。ウエブサイト「被爆者の声」プロジェクトが始動した。音声だけでは、間が持たない。文字やイメージ画像も必要だ。中学校・高校の同窓会に書き起こし作業の協力者を募ったところ、即座に7人が名乗り出てくれた。

 以前、サイトの機能で、平日の学校の授業がある時間帯の来訪者が多いことが分かった。「被爆者の声」は、有害サイトを排除した「ヤフー! きっず」に登録されていたこともあり、学校からのアクセスが多かった。子どもたちにとって、戦時中の言葉は理解が難しい。そこで難しい漢字にふりがなを振り、説明が必要な用語には、マウスを乗せると解説文が現れるように工夫した。

 サイト制作はまず、伊藤氏が制作したCD集「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」を公開することから始まった。CD集に先立ち伊藤氏は、一人ひとりの話をじっくり聞き取り編集したカセットテープ版の「被爆を語る」という音声作品を作っていた。14人分14巻、時間にして18時間30分にも及ぶ大作である。

 音声に加えて文字も欲しいが、文字化するには、18時間超の収録時間が大きな壁となる。考えた末、サイトを訪れる方々に、文字起こしをお願いすることにした。複数の方が同時に取り組めるよう、カセット音声を数分ずつのブロックに小分けして、音声を聞きながら文字が打ち込めるような仕組みを作った。

 すると、文字がどんどん、打ち込まれていったのである。一人の方が起こした文章で、聞き取れず空欄になっていた部分を別の方が補い、誤植を正す。お互い全く知らない人同士が協力して作業は行われ、09年8月1日の開始以来、わずか50日ほどで、ほぼすべての書き起こしが完了した。

 CD集に英語の字幕を付けたページもあり、字幕の翻訳には、当時18歳の学生から75歳の被爆者まで23人の協力をいただいた。米国在住の日本人もいて、その方にはネイティブ・チェックを中心にお願いした。06年8月に翻訳をスタートし、08年4月に全9ディスクの公開に漕ぎ着けた。

 インターネットを知るまで、作った作品を図書館などに置いてもらうしか発表方法がなかった伊藤氏だったが、サイトの来訪者が増えるにつれて手応えを感じ、ジャーナリスト魂に再び火が付いた。いずれは動画の時代が来るはずだと、06年秋から、ビデオ片手に被爆者のもとを訪ねた。

 広島、東京を拠点に2年間で300人に取材、整理し、08年11月からは、長崎に拠点を置きに証言取材を続けた。しかし09年3月、肺炎を患い急逝。349人の証言ビデオが遺された。

◇NPO法人化

 伊藤氏の生き方に興味を持ち、集まってきたビデオ制作者や私の仕事仲間、伊藤氏本人と私の4人は、いつしか酒を酌み交わす仲になっていた。ビデオの公開は、我々がやるしかない。伊藤氏のご兄姉にも相談し、NPO法人「被爆者の声」を設立した。

 16年8月9日の平和祈念式典で、長崎市の田上富久市長は「被爆から71年がたち、被爆者の平均年齢は80歳を越えました。世界が『被爆者のいない時代』を迎える日が少しずつ近づいています」と語った。長崎の学校では、今も被爆者を招いて話を聞いたり、修学旅行生に対しても同様な取り組みをしているが、実感として「限界に近いのではないか」と感じている。

 私たちは、伊藤氏が生涯をかけて集めた被爆者の声を一人でも多くの人に聞いてもらうために、“伊藤明彦伝道隊”ともいえる活動を続けている。そのことが、惨劇を二度と起こさないことにつながると信じている。

(古川義久、NPO法人「被爆者の声」理事長)

 

◇   ◇

 ふるかわ・よしひさ 1954年長崎県生まれ、ウェブサイト「被爆者の声」開設時は東京在勤。雑誌編集者を経てコピーライター。

 

 戦後72年がたち、沖縄戦体験者が減少していく中、体験していない世代が今後、戦争の悲惨さや平和の大切さについてどう伝えていくかが課題となっている。

 同様の課題を持つ被爆地の広島、長崎で被爆者の体験継承や平和活動に取り組んでいる識者らに、若い世代への継承の取り組みと課題、工夫している点などについて執筆してもらった。