死者胸に抱いて語る 無念に思いはせ追悼[平和どう伝えるか 広島・長崎から]4


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青来 有一

 戦後生まれの自分には当然ながら戦争の記憶はない。あるとしたら親などから聞いたり、なにかを読んだり、写真を見たりといった二次的な記憶ということになる。

 長崎は原子爆弾によって15万人もの人々が死傷した土地である。子どものころから父と母をはじめ多くの被爆者が身近にいて、彼らの話を耳にすることがあった。たとえば夕涼みや精霊流し見物のとき、墓参りのときなど、大人たちはそこにいっしょにいたかもしれない亡くなった人々を思いだして、ぽつぽつとついばむように語りあうひとときがあった。数々の思い出や噂、親類縁者の消息、その行く末などのこぼれ話を、子どもたちは聞くともなく聞いていた。

◇沈黙

 母もまた息子が聞いているかどうかなどはおかまいなしに、自らの被爆体験をよくしゃべった。昭和20年8月9日11時2分、爆心地から3キロメートルほどの官庁街にいた15歳の母は、黄色い光があたりを照らした瞬間、そばにあった旅館の玄関に逃げ込み、すぐに近くの防空壕(ごう)に避難して、まもなくからだじゅう腫れたひとがゆらゆら歩いてくるのを見た。母自身は傷ひとつ負わなかったが、数日して熱がでて、歯茎から血が流れ、髪の毛がぬけた。おそらく多量の放射線をあびたことによる急性期の障害だろう。祖父が--母の父が、山からユズをとってきて何日も煎じて飲ませてくれて助かったという。突然、栓をあけた壜(びん)の中から炭酸の泡があふれてくるような母のおしゃべりに、息子はそれほどまじめに耳をかたむけていたわけでもない。

 16歳だった父は爆心地から2・5キロメートルほどのところの動員先の工場のしごとをさぼってどうやら散髪をしていたらしいが、突然の光と爆風になにが起きたかわからないまま防空壕に逃げこんだ。4日後の8月13日、父は通っていた爆心地近くの丘にある工業高校にとにかく行ってみようと思い、火災がしずまり、焼け野原となった廃墟(はいきょ)に足を踏みいれた。

 父はこのとき、地球上では初めて核実験がおこなわれたアメリカ・ニューメキシコ州の砂漠にあるトリニティ・サイトと、原子爆弾が投下された広島、長崎にしか出現してはいない原子野を歩いたはずだが、なにを目撃したのか、なにが起きていたのか、ほとんど話はしなかった。母にくらべたら父は沈黙していたといっていい。

◇未生の記憶

 父が病で倒れて、さすがに被爆体験だけでもきちんと聞いておこうと思いあれこれ訊(たず)ねたら、ぽつりぽつりと語ってはくれたが、爆心地のすぐそばを流れる小川にうじゃうじゃとうなぎが群れていたことや、目玉を剥いて、巨大な風船のようにふくらんだ黒焦げの馬の死骸がころがっていたとか、断片的で、シュールレアリズムの絵画のような、あるいは悪夢のようで現実感がなく、細部に乏しくぼんやりしている。

 あまりの凄惨(せいさん)な体験だったことから、思い出したくない、語りたくないという被爆者は少なくないが、父はどうもそれだけではないらしい。そのうちにはっと気がついた。父がさまよい歩いた焼け野原で見聞きしたことは、16歳だった父の認識能力、語彙(ごい)《ボキャブラリー》や言語による表現力をはるかに越えていたのではないか。想像を絶する混乱、混沌(こんとん)が父の内面に押し寄せてきて、父は語ることができなかったのではないか。語らないのではなく、どうにも語ることができないのだ。

 眼で見て、耳で聞いて、臭いを嗅いで、肌で感じてはいながら、言語化できないで、ぼんやりとしたまままとわりつくばかりの未生の記憶のようなものがあるのかもしれない。意識のはしっこはそうしたものとぼんやりと混じりあい、にじんでいる……。

◇永遠

 そんなことを考えていると、死者たちがかかえこんだままの永遠に語られることがない経験に思いいたる。被爆の瞬間、数千度の熱線で消えてしまった人々、瓦礫(がれき)に埋もれて焼けてしまった人々、どんな語る機会もなかった死者たち……、歴史の彼方(かなた)に沈んでしまった言語化されない膨大な経験と記憶がたしかにあったはずなのだ。死者たちの無念とは永遠に語りえないという、そのもどかしさではないか。センチメンタルすぎる、ことばにできない経験など意味がない――という考えは合理的だが、あまりにすっきりとしすぎて、なにか底が浅い。語ることができない死者たちの無念に思いをはせることが、追悼とか慰霊のいとなみの本質であるだろう。影のような死者たちをつねに胸に抱いて、あれこれ語りあいながら、私たちの生もまた深いところに根をはっていくようにも思える。

 毎年、夏、沖縄を訪れる。海岸のガマの闇から、珊瑚(さんご)の海を血のように舞う魚たちの群れの底から押し寄せてくるなにかがある。長崎も、沖縄もまだすべてを語り尽くされたわけではないだろう。死者たちが語りかけてくる声に、それぞれが日々の暮らしのなかで、耳を澄ましてみることがたいせつなのだろう。子どもはそうして大人になる。だれも歴史と無縁のまま生きていくわけにはいかない。

(青来有一、作家)

◇   ◇

 せいらい・ゆういち 1958年長崎生まれ。2001年「聖水」で芥川賞、07年「爆心」で谷崎潤一郎賞、伊藤整文学賞受賞。長崎原爆資料館館長。

 

 戦後72年がたち、沖縄戦体験者が減少していく中、体験していない世代が今後、戦争の悲惨さや平和の大切さについてどう伝えていくかが課題となっている。

 同様の課題を持つ被爆地の広島、長崎で被爆者の体験継承や平和活動に取り組んでいる識者らに、若い世代への継承の取り組みと課題、工夫している点などについて執筆してもらった。