「樺太の記憶」探す 引き揚げ者の石澤さん 沖縄県内体験者らと「交流を」


この記事を書いた人 大森 茂夫
石澤弘文さん

 「『樺太』を知りませんか?」。終戦後の3年間、疎開先の樺太で抑留生活を送った沖縄県那覇市の石澤弘文さん(84)は、引き揚げ体験者が年々少なくなる中、当時の樺太を知る人や同じような体験をした県内在住者との交流を望んでいる。

 石澤さんは、母親が那覇市出身。戦時中、父親の仕事の都合で兵庫県に住んでいたが、1945年4月ごろ、当時日本の統治下にあった樺太、今のサハリンに住んでいた祖父を頼り、家族で疎開した。

 12歳の少年にとって、畑で野菜を収穫し、海で魚介を採る生活は楽しかった。しかし豊かな島は、同年8月15日前後を境に、凄惨(せいさん)な地上戦の現場となる。

 樺太では「終戦」後も、攻勢を強める旧ソ連軍と抗戦する日本軍との戦闘が同年8月25日まで行われた。住民たちは、南へと逃げ惑う途中で、爆撃や戦闘に巻き込まれたり、引き揚げ船が撃沈されたりして亡くなった。全国樺太連盟によると、民間人の犠牲者は約2800人に上る。

 石澤さん一家は、戦闘に巻き込まれなかったが、同年8月20日ごろ、町に来たソ連兵の姿を鮮明に記憶している。大型の軍トラックに短機関銃の装備。「これじゃあ日本軍は負けるな」と少年心に感じた。ソ連兵らは、腕に略奪したと見られる腕時計をじゃらじゃらと巻き、胸ポケットにはたくさんの万年筆を挿していた。

 王子製紙で働いていた父親は、ソ連に接収された工場で、ソ連人らに技術を教えた。石澤さんは、ニシンを箱詰めにし、貨車に積む仕事などに当たった。「いつ故郷に帰ることができるのか」。望郷の念と不安は募った。

 3年後、一家にようやく引き揚げの許可が出た。しかし、15歳になった男子は、当局の命令で留め置かれ勤労動員されていた。母親は、息子を置いていくことはできないと、乗船名簿に年齢を低く偽って記したと後に聞いた。乗船時は「ほっとした」。口にした白米とたくあんのおいしさを今も覚えている。

 あれから72年。地上戦があった樺太と沖縄を重ね合わせ、「戦争になれば犠牲になるのは住民。だから戦争はしてはいけない」と語る。樺太での自らの体験を語り継ぎたいという思いも強めている。

 石澤さんの連絡先は(電話)090(8837)4723。樺太に関係する県内在住者からの連絡を待っている。
 (中村万里子)