<未来に伝える沖縄戦>宮崎疎開、「沖縄玉砕」の報 金城シズ子さん


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 南風原町津嘉山の金城シズ子さん(87)は、幼い時に母を亡くし、父と妹2人と暮らしていました。1944年9月、すぐ下の妹・ミツ子さんと一緒に、現在の宮崎県西都市にある三財国民学校に疎開しました。父と一番下の妹は沖縄にとどまりました。親元を離れた宮崎での「ヤーサン、ヒーサン、シカラーサン(ひもじい、寒い、さみしい)」という生活は2年余り続きました。沖縄戦で父を亡くし、沖縄に帰還後も苦労の連続でした。金城さんの戦争体験を南風原町立南星中3年の大城紗和さん(14)と伊佐香乃さん(15)が聞きました。

戦争体験を語る金城シズ子さん=6日、南風原町津嘉山

 《金城さんは30年に当時の南風原村津嘉山で生まれました。5歳ぐらいの時、母が病気で亡くなります。27歳という若さでした。妹たちの面倒は金城さんが見ることになりました。1944年9月、金城さんは妹と2人で学童疎開のため船で宮崎県に向かいます》

 母が歩く姿と、葬式の様子はまだ目に浮かびます。母が亡くなってからは、(妹たちの世話などで)遊ぶ時間はなくなりました。疎開のときは数え15歳、南風原国民学校の高等2年生。本当は家族全員で行くつもりだったのですが、「お父さんは行けませんよ」と役所から連絡が来ました。「もう行かないでおこうか」という話もありましたが、子ども2人だけで行くことになりました。父は30代。防衛隊の手伝いをさせられたのだと思います。

 那覇港を出発したのは44年9月でした。十数日かけてやっと鹿児島に着きました。今と違って昔は船ですし、戦争のせいだからか、あっちこっちに行って時間がかかりました。

 《鹿児島から総勢37人で三財国民学校に行きました》

 三財国民学校に引率の先生1人、世話係の女性2人を合わせて計37人で行きました。裁縫室にみんなで寝泊まりしました。最初のうちは慣れないから、ナチブサー(泣き虫)の2年生の男の子は「ヤーカイケーブーサン(家に帰りたい)」って泣いていました。みんなさみしくて。世話人の女性たちが泣いている子を慰めていました。

 気候も寒かったです。幼い子はトイレに行こうと夜起こしても、寒くて縮こまってしまい、布団の中でおもらしをしていました。

 《疎開学童の中では年長者だった金城さん。子どもたちの世話係のような役割も担いました》

 疎開先では勉強どころじゃありませんでした。洗濯したり、ご飯を炊いたり。朝、子どもたちが起きる前に起きました。ガスはないので、火を起こしてご飯を作って、ご飯ができそうになったら生徒を起こして。ご飯と言ってもイモを刻んで、お米と一緒に炊きました。イモにお米が付いているような状態でした。

 《三財に着いて間もなく、沖縄では10・10空襲が起きました。戦争の状況は、三財国民学校の先生たちから聞かされました。沖縄の組織的戦闘が終わった45年6月以降、三財国民学校の先生から「沖縄は玉砕した」と聞かされます》

 学校の先生方が「沖縄、戦争始まったよ。空襲があったよ」と聞かされました。聞いた時は、みんなワーワー泣いていました。家族を心配して。戦争がやがて終わるという頃に白いシラミがはやりました。洋服の縫い目まで、シラミがわきました。

 学校の先生たちから「沖縄は玉砕した」と聞いた時は、もう誰もいなくなったと思いました。8月には学校の先生が「広島に原子爆弾が落ちた。あっちは1里四方は全滅らしいよ」「パッという光に当たった人はみんなだめらしいよ」と聞かされました。そういう話を聞いて、沖縄に帰れるとは思いませんでした。

※続きは10月11日付紙面をご覧ください。