【特別評論】恐怖の空 いつまで 松永勝利(編集局次長・報道本部長)


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 亜熱帯性常緑広葉樹のイタジイの木々がうっそうと生い茂っている。周囲には虫の鳴き声が絶えず響き、柔らかな風も吹いている。

 厚い雲に切れ目ができ、森の端に広がる牧草地に日差しが降り注いだ。鮮やかに輝く緑の平地に、黒く焼けただれた巨大な物体が横たわっている。やんばる原生の自然の中、ひときわ異物感を漂わせていた。

 沖縄県東村高江で起きた米軍ヘリ炎上事故。翌日昼の現場には、大勢の報道陣が詰め掛けていた。周囲は規制線が張られ、大破した米軍普天間飛行場所属のCH53E大型輸送ヘリコプターには近づくことができない。

 規制線の外には県警の警察官のほか、海兵隊員が立ち入りを制限していた。こうした事故現場を何度見てきただろうか。目の前の光景を眺めながら、そう思った。

 1994年4月にF15戦闘機が嘉手納弾薬庫地区の黙認耕作地に墜落した時も、前半分を農地に突き刺し、逆さに屹立(きつりつ)した機体を規制線の外から凝視した。2004年8月に宜野湾市の沖縄国際大学にCH53Dヘリが墜落した時も現場に急行した。「取材記者だ」と告げて規制線をくぐって中に入ろうとしたら、怒鳴り声を上げる海兵隊員に、力尽くで押し戻された。

 72年の施政権返還以降、米軍機の墜落事故は16年12月の名護市安部の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの事故を合わせて48件発生している。沖縄では1年に1回以上、米軍機が空から降ってきたことになる。

 復帰前の59年6月に起きた宮森小米軍ジェット機墜落事故では、児童ら18人が命を落とした。この中に校庭のブランコに腰掛けて、強烈な爆風を受けて亡くなった男児がいる。

 墜落直前、学校ではミルク給食が始まっていた。少年は花壇に咲いていた一輪のヒマワリを手に、教室に戻って「先生にあげる」と言いながら、女性教師に差し出した。

 すると「取ってはいけませんよ」と注意される。「だから先生にあげるよ」と言い残し、教室を飛び出したのだ。これが生徒の発した最後の言葉となった。

 女性教師が初めて当時を語ったのは51年後のことだ。手記では少年について「今日に至るまで頭から離れません」と書いている。ごくありふれた日常が、沖縄では生死を分けることになる。長年にわたって自責の念で苦しみ続けた教師。命を奪われた者だけでなく、多くの人々に深い傷を負わせていることを思い知った。

 安倍晋三首相は衆院解散について、北朝鮮への圧力をかける方針を掲げて「国難突破解散」と位置付けた。それでは沖縄で起きていることは「国難」ではないのか。沖縄県民の生命、財産が脅かされているではないか。

 全国の8割の人が日米安全保障条約を容認するといわれる。しかし在日米軍専用基地の7割が沖縄に集中する。全国の大部分の人が平和だけを享受し、沖縄ばかりが被害と負担を強いられる構図は極めていびつだ。

 沖縄の青く美しい空。私たちはいつになったら、おびえ、おののくことなく、すがすがしい気持ちで見上げることができるのか。恐怖の空に変えている政府は、この問いに向き合わなければならない。