<未来に伝える沖縄戦>前田を転々、祖母や弟犠牲 石川幸助さん


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 浦添村(現浦添市)前田で生まれ育った石川幸助さん(82)は祖母と両親、3人の弟たちとつつましやかですが、平和に暮してしていました。しかし第2次世界大戦が勃発し、1945年3月に父親が防衛隊に召集されて以降は、激戦地となった地元前田の壕を転々と逃げ回りました。家族は次々と米軍の射撃を受け、命を落としていきました。「与えられた命に感謝しないと」と、終戦後はたった1人の家族・母と二人三脚で生活を再建しました。石川さんの戦争体験を浦添中2年の片寄空美さん(14)と久志勇雅さん(13)が聞きました。

自らの悲惨な戦争体験を語り「二度と戦争を起こしてはならない」と強調する石川幸助さん=23日、浦添市前田

 《石川さんは6人きょうだいの次男でしたが、戦前に長男が病死したため、長男の役目を担っていました。1945年当時は浦添国民学校の3年生。戦争が激化する中、父の元に召集令状が届きます》

 父は鹿児島県などで機関銃隊の一員として2年間務め上げ、45年の2月末ごろに浦添村に戻ってきました。私たち家族は皆「これからまたお父さんと一緒に暮らせるね」と大変喜んでいましたが、帰任からわずか2、3週間後に父の召集を求める赤紙が届きました。

 祖母が「また(父が)兵隊に連れて行かれる」といって、悲しそうに悔しそうに泣いていた姿を、今でもはっきりと覚えています。あの時代は一度兵隊になったら死ぬ覚悟。残された家族も、もう会えないものだと思っていました。そして父は再び兵隊になりました。

 私と弟たちは疎開しようか、一度は迷いましたが、一番下の弟・真一が生後8カ月でまだ小さかった上、祖母が「船路は危ない」と許さなかったため、家族はみんな沖縄に残ることにしました。

 《45年4月1日、大勢の米兵が北谷や読谷から次々と沖縄本島に上陸しました。見晴らしの良い前田高地は、日本軍の司令部があった首里の防衛線として重要な場所でした》

 米軍は容赦なく攻撃を仕掛け、いよいよ浦添にも迫ってきました。地獄の始まりです。私たち家族は、現在の浦添市消防署の近くにある西新城という母の実家裏の防空壕に隠れました。時々、壕の入り口付近で銃の音も聞こえ、本当に怖かったです。数日もすれば食べ物が底を突き、みんなひもじい思いの中おびえながら、ただただ壕の中で米軍がいなくなるのをじっと待っていました。

 前田高地は大変な激戦地で、朝から晩まで艦砲弾が飛び交い、辺り一面の焼け野原には至る所に死体がありました。母たちが「これ以上ここにいたらやられる」と言ったので27日ごろに壕を出て、首里を目指すことにしました。

 必死の思いで歩き、ウカンジャ森の頂上付近に着くころ、上の方から米軍が撃った弾が祖母と当時3歳の四男善一に直撃し、目の前で即死しました。その後間もなくして三男の三郎(当時7歳)も犠牲となりました。

 《4月30日、石川さんは首里行きを断念し、母、真一さんと前田小学校近くにある遠い親戚の前上門(めーじょう)の墓に身を隠しました》

 前上門の墓は既に人がいっぱいでしたが、一夜を過ごしました。翌5月1日朝、再び首里を目指し歩いている途中、背中におぶっていた真一のこめかみを迫撃砲の破片が貫通。真一は泣き声も上げぬまま、私の背中で死にました。一瞬はパニックになりましたが「ここから逃げないと」という一心で、悲しむ余地さえ与えられませんでした。足をけがし、つえをついていた母に「あなた1人だけでも逃げなさい」と念を押され、やむを得ず母とはそこで別れました。

《一人きりになった石川さんは再び前上門の墓に戻ることにしました。孤独に加え、極度の疲労と飢えで体力もほとんど限界でした》

 空腹と喉の渇きで全く体に力が入らないのです。ここに来て4日目に雨が降ったため、這いつくばるようにしてそこら辺りにあった器などを利用して水をかき集め、泥とごみが混じった雨水を飲みました。4日間、口にしたものはそれだけです。あまりの空腹から自分の小便も飲もうとしましたが、栄養失調のため量も少なく、どす黒く濁っていました。口に含んだら吐き気がして、結局、全部は飲めなかったです。戦争は本当に人の感覚をまひさせる恐ろしいものだと思いました。

 「ここにいたら死んでしまう」と思い、再び西新城に戻ることにしました。

※続きは10月25日付紙面をご覧ください。