<未来に伝える沖縄戦>親と離れ戦禍生き延びる 山川信子さん


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 金武町に住む山川信子さん(85)はフィリピンのミンダナオ島で生まれました。太平洋戦争の開戦前、両親と別れて金武村伊芸区(現在の金武町)で暮らすようになり、沖縄戦を1人で生き延びました。両親と妹2人はフィリピンで亡くなり、再会はかないませんでした。戦後も孤独の中で生きた山川さんの体験を、金武中学校3年の宮城龍英さん(14)と宮城マリヤさん(15)が聞きました。

戦時中米軍から身を隠した出来事を語る山川信子さん=12日、金武町金武

 《山川さんは1932年、米統治下だったフィリピン・ミンダナオ島のダバオで生まれました。両親は現地に工場を持ち、バショウから糸を取って輸出する事業を営んでいました》

 私は長女でした。3歳の頃、母・カマが弟のお産の時に亡くなりました。弟は生まれませんでした。5歳の頃、父の福助と一緒に、母の遺骨を伊芸に持ち帰りました。1カ月くらい滞在して、ダバオに戻りました。その時にホテルで撮った写真が残っています。父が写った唯一の写真です。後に母となるウタも一緒に写っています。

 37年に父は再婚し、妹のトミ子が生まれました。2年後、私は父の親友と伊芸に戻ります。7歳でした。父からは、1人暮らしの祖母の面倒を見るよう頼まれました。「自分たちは後で帰るから」と言って。思い出したくもないです。下の妹の敏子はその翌年に生まれたので、私は顔も知りません。

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 《山川さんは帰国後、伊芸の祖母の家や伯父の元で暮らします。小学校に入りましたが、ほとんど学校には行かず、子守をしたり、畑で芋や麦などを作ったりしました。44年10月10日、米軍による大規模な空襲がありました。「10・10空襲」です。山川さんの元にも、戦争の影が近づいてきました》

 婦人会も私たちも、バケツを持って消火訓練をしました。わら人形を竹やりで刺す訓練もありました。45年4月に米軍が沖縄本島に上陸してきた時は、自宅近くの壕にいました。金武村の公民館には日本軍の部隊がいました。いま米軍のキャンプ・ハンセンになっている所は、サトウキビ畑でした。

 夜道、島尻からやんばるまで子どもを担いで逃げる人がいました。はだしでした。子どもは「痛いよー」「痛いよー」と言って、かわいそうでした。その後、私たちは恩納岳に逃げました。壕の中は1家族8人ぐらい入っていて、ジメジメして暑かった。服の縫い目には白いシラミがいっぱいでした。夜は両親が恋しくて泣きました。

 恩納岳から金武湾を見ると、米軍の船がずらっと並んでいました。夜、照明弾が上がると人の影が映って、機関銃の音がしました。壕から頭を出して、撃たれて亡くなった同年生もいました。私たちの部落はそれほど被害がありませんでしたが、家は全て焼かれて無くなりました。

※続きは12月27日付紙面をご覧ください。