<未来に伝える沖縄戦>召集令状渡した後輩、戦死 與座章健さん


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 南風原町津嘉山の與座章健さん(89)は1941年、県立第一中学校(現首里高校)に入学し、沖縄戦で一中鉄血勤皇隊に入隊しました。その後、日本軍から除隊を命じられ、家族と一緒に南部の戦場をさまよいました。與座さんの話を県立南風原高校2年の福田麻央さん(17)と1年の平良昴揮さん(16)が聞きました。

鉄血勤皇隊について語る與座章健さん=県立南風原高校

 《與座さんは入学後、戦時色の強い教育を受け、沖縄戦が近くなると陣地構築へと駆り出されます。10・10空襲も目撃しました》

 太平洋戦争が始まると軍の陣地構築や軍事物資の輸送、飛行機を収納する掩体壕造り、滑走路建設に駆り出されました。学業どころではありません。

 10・10空襲の日、私はちょうど午前7時に家を出て一中に向けて歩いていました。見たことない飛行機が飛び交っていると思っていたら、空襲警報が鳴り、那覇港に目掛け爆弾を落としていきました。「これが戦争か」と初めて感じた瞬間でした。

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 《45年3月、繰り上げ卒業の後、鉄血勤皇隊に入隊します。その直前、入隊申込書の印鑑をもらうため帰宅します。同じ津嘉山出身の後輩の兄弟2人にも球部隊(第32軍)の召集令状を届けました》

 私は入隊申込書の紙と、後輩2人宛ての召集令状を持って津嘉山に帰りました。後で知りますが、2人のうち1人は戦死しました。家に帰り、父に申込書を渡しました。父は「そうか、頑張ってこい」と告げ、そのまま印鑑を押しました。その晩、寄宿舎に戻る道中「これで家族と最後の別れになった」と涙を流しながら歩きました。

 米軍上陸前の3月23日から空襲や艦砲射撃が激しくなりました。27日、一中の寄宿舎で卒業式が開かれ、私たち4年生は5年生と一緒に卒業しました。先生から「戦争だからこれ以上お前たちは勉強する必要がない」と言われ、翌28日に鉄血勤皇隊に入隊したのです。

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 《入隊後、砲煙弾雨の中、電線修復や食糧庫の見張り、陣地構築など危険な作業をさせられます。家族に向けた遺書も書かされました》

 4月12日、寄宿舎が艦砲でやられ、最初の犠牲者が出ました。中学生2、3人が亡くなりました。私たちもいつやられるか分からない。家族へ向け遺書を書かされました。何と書いたか覚えていませんが、遺書と卒業証書は現在の豊見城市保栄茂の壕に持っていきました。

 私には忘れることのできない命令があります。一つは「民間の畑から野菜を取ってこい」という命令です。引率教諭を含め5人で首里金城町にあったキャベツ畑に行きました。そこにはたくさんのキャベツがあり、持ち帰ろうとしました。ところがそこにいた暁部隊の陸軍軍曹が血相を変えて私たちに殴りかかったのです。「どこの少年兵か。これは俺たちが金を払って買った物だ」。その後中隊長が来て「第32軍から食糧を調達しろと言われた」と説明しますが、暁部隊は一切キャベツを渡さず、私たちは置いて帰りました。

 もう一つは「酒をくんでこい」と命じられたことです。3人で首里崎山町にある酒造所へ行き、地下タンクにあった酒をくみました。その後、空から榴散弾があられのように降ってきました。負傷せず無事でしたが、酒はやられました。「なぜ酒のために危険な仕事をしなければいけないのか。こんなばかな命令があるか」と思いました。

※続きは2月14日付紙面をご覧ください。