名曲「花」はなぜヒットしたのか? 喜納昌吉が活動50年を振り返る


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 「花」や「ハイサイおじさん」など沖縄を代表する多くの曲を生んだ喜納昌吉の活動50周年企画展が17日から那覇市で開かれる。開催を前に、喜納に音楽との向き合い方や今後の活動について聞いた。(聞き手・藤村謙吾)

「人々の心に平和の花が咲く曲を届けたい」と意気込む喜納昌吉

 ―自身の音楽をどう考えるか。

 民謡歌手の父・喜納昌永の影響で、音楽活動の入り口は民謡だった。幼少時に宜野湾市のカーニバルのリハーサルでベンチャーズの演奏を聞いたことはあったが、ロックと関わりはなかった。1967年からコザで民謡クラブを経営していた。その頃、ゲート通り、中の町を遊び場にし、ギターやドラムといったロックの要素をミックスした世界観が出来上がっていった。ロックの突破力と民謡の基盤が融合し「喜納昌吉ポップス」といえるジャンルができた時期だった。

 ―80年のセカンドアルバム「ブラッドライン」に収録された「花~すべての人の心に花を~」が世界的にヒットしたのはなぜか。

 64年に東京五輪の映像を見た時、どうしようもない感動が湧き上がり「泣きなさい 笑いなさい」のフレーズができたが、それ以外は未完成だった。メジャーデビューして77年に東京の中野サンプラザでコンサートをした。前売り券は16枚しか売れなかったが、60年、70年安保闘争の時代に、ヒッピーやマルクスボーイだった(社会への)問題意識を持っている人たちが当日集まり満員になった。その人たちの挫折感を、僕も受け入れていく中で「花」の歌詞が生まれた。社会に浸透したのは、彼らのスピリットを受け入れていたことが大きいと思う。

 ―最近は「ニライカナイまつり」など伝統芸能や世界各地の音楽を通して、世界平和を訴える活動に力を入れている。

 相手の文化を受け入れることで、相手にないものが沖縄にあるのではと考えることができる。相手の文化に私たちのいいものを付加して、お互いが相乗効果で進化していく世界を選択していくという考えが僕の音楽哲学にある。北朝鮮情勢も音楽で変えたい。朝鮮半島を南北に分ける北緯38度線での「花アリラン」コンサート開催を目指して昨年、ソウルでコンサートを行った。6カ国協議がうまくいかない中でアーティストの「6者会合」を実現したい。

 ―今後の活動は。

 50年間、曲と一緒に歩いてきた。その上で「すべての武器を楽器に」と訴え続けてもきた。国連が核兵器禁止条約を採択し、米国では銃規制を求める動きが出ている。時が(自分に出番を与える)準備をしてくれているような不思議な感じだ。8月に「新しい文明の春が来た」をテーマにアルバム「スプリングロード」を出す。人々の心に平和の花が咲くような曲を、世に送り届けたい。

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 喜納昌吉活動50周年企画「喜納昌吉 Earth&Peace~ムーブメントの軌跡展~」が17~22日、県立博物館・美術館県民ギャラリーで開催される。22日午後3時からは博物館講座室で喜納による講演「地球こそが人類の聖地である」が開かれる。いずれも入場無料。

<喜納昌吉の主な歩み>

1948年 コザ市(現沖縄市)に生まれる

  61年 「ハイサイおじさん」作曲

  67年 チャンプルーズ結成。コザで民謡クラブ「ミカド」を経営

  76年 「ハイサイおじさん」シングル版発売

  77年 メジャーデビューアルバム「喜納昌吉&チャンプルーズ」をリリース

  80年 「花~すべての人の心に花を~」を収録したアルバム「ブラッドライン」をリリース

  91年 NHK紅白歌合戦出場

  96年 アトランタ五輪文化プログラムにアジア代表で出演。「花―」が日本レコード大賞特別賞

2004年 参院選比例代表に民主党から出馬し、当選

  14年 県知事選に無所属で出馬し落選

  17年 「花アリラン」コンサートソウル公演