<未来に伝える沖縄戦>母死亡、人怖く墓に避難 上間幸仁さん


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 上間幸仁さん(84)は羽地村(現在の名護市羽地)の屋我地島で生まれ育ちました。上間さんの母は沖縄戦が始まった1945年4月、米軍の艦砲射撃で負傷し、亡くなりました。遺された生後3カ月の妹も栄養不足のために亡くなってしまいます。上間さんの話を首里東高校3年の桃原亜子さん(17)と大城萌音さん(18)が聞きました。

戦争体験を語る上間幸仁さん=4日、那覇市首里

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 《母は、上間さんを産んだ後に離婚し、その後再婚しました。太平洋戦争が始まった後、義父は軍隊に召集されました。沖縄戦が始まった45年、現在の小学校に当たる国民学校の児童だった上間さんは、母と妹2人、弟1人、祖父らと一緒に屋我地島で暮らしていました》

 当時、学校では日本は神の国だから必ず戦争に勝つと教えられていました。41年12月8日の真珠湾攻撃の後には、屋我地島でも(お祝いの)ちょうちん行列がありました。

 家から学校へ行く途中、日本の敵だった中国の蒋介石、イギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルトの3体のわら人形がありました。日本兵の指導で、登校と下校の時は、わら人形のお腹を竹やりで突いていました。

 米兵が落下傘で高い所から降り、気絶したときには柔らかい部分を竹やりで突けとも教えられました。銃を構える米兵を竹やりで突けとは、本当にばかなことをしていたなと思います。運天港で日本軍の魚雷艇を保管する場所を確保するための作業にも行きました。

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 《44年10月10日の「10・10空襲」では、屋我地島にあるハンセン病療養所「国頭愛楽園」(今の沖縄愛楽園)が大きな被害を受けました。その後も空襲が繰り返されました》

 10月10日の空襲では最初、日本軍の兵隊さんも米軍機のことを味方か敵か分かっていませんでした。兵隊さんたちは運動場に出て米軍機に向かい万歳しました。攻撃してきた時に初めて敵機だと分かって逃げました。当時の日本は、どれだけ秘密主義だったのだろうかと思います。(戦争の情勢を)国民や兵隊に知らせていませんでした。

 その後も米軍機は(国頭村の)奥間を攻撃した後、屋我地島に飛んできて、愛楽園に機銃で攻撃しました。近くにある運天港を日本軍が使っていたので将校の家と間違えたのだと思います。愛楽園は患者さんも防空壕造りに大変忙しかったようです。

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 《45年4月、米軍は沖縄本島へ上陸し、屋我地島へも艦砲射撃や空襲がありました。身の危険を感じる中、上間さんの母は、幼い子どものうち2歳の男児を近所に住む親せきに預けに行きましたが、帰り道で艦砲射撃を受けました》

 私はその日、山の方へ行っており、軍艦が(島北部の)済井出に近づいているのが見えました。「珍しい船が来ているな」と思いました。棒みたいなものから火が出たと思ったら近くで爆発があり、耳がおかしくなりました。

 危ないから逃げようと移動していた途中で、近所のおばさんから「あんたのお母さんは亡くなったよ」と言われました。私は「お母さんの所へ行く」と言いましたが、おばさんは「行かないで。捕まるよ」と言って私を止め、母がいる所へ行かせませんでした。おばさんも足をけがしており、四つんばいで移動していました。

 母がいる場所に行かせてもらえず、そのまま山の方へ逃げました。その時の気持ちは何とも言えません。母が亡くなったことをじかに聞いているわけですから。

※続きは4月25日付紙面をご覧ください。