<未来に伝える沖縄戦>逃れた台湾、母と姉妹 病死 上原和彦さん


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 上原和彦さん(79)=南城市=は1938年6月7日、西太平洋のパラオ共和国コロール市で生まれました。太平洋戦争が激しくなると、母と姉2人、弟、妹の6人で父・宏さんのふるさと沖縄県を目指しました。米軍によって船が沈没させられたり、母や姉を病気で亡くしたりしました。南洋群島から遠い沖縄を目指した上原さんの戦争体験を南城市立大里中学校3年生の米元遥子さん(14)と高島皓乃さん(14)が聞きました。

パラオで生まれ、沖縄戦の戦禍を逃れた当時の様子を語る上原和彦さん=4月26日、南城市立大里中学校

 〈上原さんの父・宏さんは、那覇の垣花で漁師をしていました。不漁が続いていたため、1933年に親戚と共にパラオに渡りました。そこで宏さんは母ヤスさんと出会い、5人の子宝に恵まれました。太平洋戦争が進む中、宏さんが防衛隊に徴用されます。戦禍から逃れるため、上原さんと母、姉2人、弟、妹の6人で沖縄を目指しました〉

 1944年8月18日、日本軍の巡洋艦に乗ってパラオ港を出港しました。船に何日乗っていたかは覚えていませんが、しばらくするとフィリピンのマニラに着きました。兵隊だったおじがマニラにおり、母と一緒に会いました。家族でマニラの街を散歩したのを覚えています。マニラでは2泊しました。その後は民間船に乗り換えて、沖縄を目指しました。

 ルソン島を過ぎたあたりだったと思います。何が起こるかも分からず、僕らは甲板の上で休んでいました。しばらくすると「トンボ」と呼ばれる米軍の飛行機が飛んでくるのが見えました。船長さんは驚いて、近くの島に船を止めて、南洋から乗ってきた人々を一斉に下ろしました。

 砂浜で立っていると、米軍の飛行機4機が飛んできました。みんなで熱帯林に隠れました。ドンドンと爆弾の音が響いていました。1時間ぐらいたったでしょうか。静かになり、おそるおそる砂浜の方に戻ると、乗ってきた船の姿は跡形もありません。

 浜には爆弾で太ももを失い、血を流して倒れている男の人がいました。既に亡くなっていました。数時間たって潮が満ち始めると、地獄のような光景が現れました。潮に乗って、船員たちの死体が浜に打ち上げられ始めたのです。僕らは衣類もお金も食料も全て船に乗せていたので、とても心配になりました。

 〈乗っていた民間船を米軍機の攻撃によって失った上原さん。島で身動きが取れない中、夜になると日本軍の駆逐艦が救助にやってきました。駆逐艦に乗せられてたどり着いたのは台湾の高雄港でした〉

 着いたのは8月下旬か9月上旬の夜明けごろだったと思います。東の空が明るくなっていました。港に着いて体中に消毒液をかけられました。南方から来たので伝染病とかにかかってないか心配していたようです。何日かすると一軒家をあてがってもらって家族で暮らすことができました。ここまでは家族にはけがや病気などはありませんでした。

 その後、しばらくすると、高雄(たかお)の北の方に移動して、丸太のような家で暮らしました。44年12月ごろ、姉が高熱を出して倒れてしまいました。2日間、母が看病しましたが、結局亡くなってしまいました。姉さんが埋葬されたのは鉄道の終着駅のような場所でした。レールが敷かれていて、近くには機関車もありました。台湾で亡くなった人もその近くに埋葬されていました。

 ある日、埋葬地に花と水を供えに行きました。手を合わせて帰ろうと思った時、米軍のグラマン戦闘機がブンブンいって飛んできました。はっきりと星のマークと白い線が見え、僕をめがけて機銃掃射してきました。驚いて、近くの機関車の下に潜り込んで隠れると、レールに弾丸が当たってピュンピュンと跳ねていました。飛び上がるぐらい怖かったけど、表には僕一人しかいない。僕を狙っていると思うと本当に恐ろしくて、いまでもその時の状況が思い浮かびます。

 〈約3カ月後、今度は母・ヤスさんが高熱を出し、亡くなってしまいます。母を亡くしてからはきょうだい4人だけで暮らす日々が始まりました〉

※続きは5月9日付紙面をご覧ください。