<未来に伝える沖縄戦>戦場であまりに軽い人命 神谷清吉さん


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 八重瀬町東風平小城出身の神谷清吉さん(90)は東風平国民学校高等科を15歳で卒業後、東風平青年学校に入学します。1944年、石垣島での飛行場建設に徴用されます。本島に戻るとすぐに防衛隊として召集されます。本島南部の戦闘を生き延び、捕虜となり、ハワイの収容所に連れて行かれました。東風平中学校の金城愛翔さん(14)と佐久川璃玖さん(14)が神谷さんの話を聞きました。

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防衛隊として召集され、戦闘の第一線に送られた経験を語る神谷清吉さん=15日、八重瀬町東風平小城の自宅

 〈1944年夏、16歳だった神谷さんは、石垣島の陸軍白保飛行場の建設工事に徴用されます〉

 

 青年学校にいるとき、役場から飛行場建設の案内が字(小城)にあった。私の家は小城で一番貧しくて、貧しい人が行かされた。小城からは私1人。白保飛行場では、ざるのようなものに土を入れて何往復もして運んだよ。働く人の弁当運びもした。

 

 朝鮮人もいた。朝鮮人が「難儀だ」と言ったら、日本兵が背骨を棒で打つんだよ。日本兵は大変だったよ。

 

 飛行場の近くに住み、ご飯には切り干し芋が混ざっていた。「イリムサー」と言って芋に虫が入っていると、ご飯が臭くて食べられなかったよ。約3カ月後、本島に戻ることになった。

 

 〈1944年10月10日、南西諸島全域に米軍の空襲がありました。神谷さんはちょうどその日、本島に戻る船に乗っていました〉

 

 石垣港から日本軍の船で本島に帰る予定だったが、既に満席となっていて、私たちは5、6人で(漁船のような小さい)ポンポン船に乗せられた。先に行った日本軍の船は、海の真ん中で攻撃を受けて沈没したんだ。私たちの船の横に真っ白になった遺体や荷物がぶつかっていた。

 

 那覇港に着いたら空襲の直後で、港にあったたるから黒砂糖がいっぱい溶けて地面の上に広がっていたのを覚えている。

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 〈1945年3月、17歳の神谷さんは防衛隊に召集されます〉

 

 糸満国民学校で身体検査を受けた。私は合格して、真栄里の民家に宿泊しながら、船舶隊の特攻艇を山から海に運び出す任務に就いた。真栄里のガマから砂浜まで敷かれていたレールを使って、特攻艇に爆弾を積んで海まで押した。

 

 この任務に就いたのは10人くらいだった。ある日、誰かがどろでぃー(泥でまみれた手)で特攻艇を押して、船に泥が付いてしまった。日本兵に見られて「誰が汚れた手で触ったか」と言われて、誰も言わないからみんなたたかれたよ。

 

 特攻艇に乗った兵隊は日本刀を背中に下げて、日の丸の鉢巻きをしていた。「行ってきます」ではなく「ゆきます」と言って出発していった。半分は涙を浮かべていたよ。

 

 だけど、特攻艇はエンジンから「プンプン」と音がするから、米軍の船に近づくとすぐに見つかってしまう。だから特攻艇は、みんな米軍の船を爆破する前に行き先を変えた。生きて戻ってきたら隊長が許さないから、どこかに逃げて敗残兵となったと思うよ。

 

※続きは6月27日付紙面をご覧ください。