<未来に伝える沖縄戦>5歳の足で那覇から羽地へ 玉栄義之さん


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 与那城村(現在のうるま市)屋慶名出身の玉栄義之さんは5歳の時、学校の訓導(教師)をしていた父・清良さんのいる那覇へ引っ越し、沖縄戦に巻き込まれました。南部から北部へ戦禍を逃れて避難し、再び屋慶名に戻るまでの道のりは幼子にとって大変なものでした。玉栄さんの話を金武中学校の宮平夏野さん(14)と天願光さん(14)が聞きました。

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沖縄戦の様子を語る玉栄義之さん=6月27日午後、金武町金武

 《玉栄さん一家は1944年、長男の進さん、次男の晴夫さん、祖母のカマーさん、叔母の文さんが清良さんのいる那覇に避難しました。屋慶名には三男の玉栄さんと曽祖母のマシさん、母のサトさん、弟の拡さんが残りました》

 屋慶名の家でも、しばしば空襲警報が発令されました。「空襲警報発令」「敵軍現る」「消灯し避難してください」。すると、上空で敵機の音がかすかに聞こえてきます。その度に僕は、母に頭巾をかぶせられて家から200メートルくらい離れた森にある長さ10メートルくらいの壕へ連れていかれました。チョロチョロと壕の中を流れる水の音を聞きながら、警報が解除されるまで身を潜めていました。

 その後、屋慶名に残っていた家族も那覇に引っ越しました。兄たちがよく、自分たちの通う大道国民学校の校歌を聞かせてくれました。僕と長男が散髪をしている時に空襲警報が出て、髪を半分だけ刈った状態で逃げたことを覚えています。

 母は2人の兄を本土に疎開させようと、家財を対馬丸に積んでいたようです。対馬丸は米潜水艦の魚雷攻撃で沈没し、(分かっているだけで)学童784人を含む1482人が犠牲になりました。兄たちは対馬丸には乗りませんでしたが、戦況が厳しくなる前に家財の一切を失いました。

 《45年3月25日、米軍は沖縄本島と慶良間諸島への艦砲射撃を始めます。島尻の爆発音が那覇まで聞こえました。一家9人は北部へ避難を始めました》

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 与那原方面から恩納村を通って羽地村(現在の名護市)に向かいました。途中、父が与那原の三差路に並んで立っていた防衛隊の中に叔父の清政を見つけて言葉を交わしました。叔父は「最後になるかもしれないから家族のことをよろしく」と言っていたようです。叔父が頭に包帯を巻いてさまよう姿を本島南部で見た人がいたようでしたが、帰ってくることはなく、本当に父との最後の会話になりました。

 《途中、荷馬車に乗るなどしながら、一家は羽地に着きました》

 羽地までの道のりは何日もかかりました。羽地では田園の中に一軒だけ立っている家を見つけて、家族で休ませてもらいました。母はその時、ふすまの奥にミーゾーキーいっぱいに積まれたイモを見つけて「子どもたちがおなかをすかしているので少しめぐんで下さい」とお願いしたそうです。ただ、母はあまりに空腹だったようで、軒下で一人で食べてしまったようでした。

 しばらく休んでいると突然バンバンと銃声が聞こえました。幅2メートルほどのあぜ道のようなところから米兵が来て、銃を撃っていました。そうなると“逃げ勝負”です。僕も田んぼのあぜ道を逃げましたが、上手に走れず田んぼの中に落ちてしまいました。次男が引き上げてくれましたが、家族とは離ればなれになって次男と2人で多野岳を2日間さまよいました。

※続きは7月11日付紙面をご覧ください。