遺族 癒えぬ悲しみ 伊江港LCT爆発 事故風化危惧も


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黙とうし、爆発事故の犠牲者を追悼する参列者たち=6日、伊江港

 【伊江】1948年8月6日、米軍爆弾爆発事故で戦後最大となる107人の死者を出した沖縄県の伊江島の米軍弾薬処理船(LCT)爆発事故。沖縄戦を生き抜いた人々を再び地獄につき落とした。事故から70年となった6日、体験者や遺族ら60人は伊江港内慰霊碑で鎮魂の祈りをささげた。「悲劇を繰り返すまい」と事故の記憶の継承を願い、静かに手を合わせた。

 6日午後、慰霊祭の参加者らを乗せたフェリーが伊江港に接岸した。48年8月6日の爆発事故直前も同じような光景があった。本島からの連絡船が着いたばかりの時間帯。港が混雑していたさなか、爆発事故は起きた。

 屋嘉比智章さん(75)=那覇市=は、ほぼ毎年慰霊祭に参加している。母・キクさん=当時30代=は連絡船で島に着いた直後、事故に巻き込まれて亡くなった。当時5歳だった智章さんは、担架で運ばれたキクさんの遺体を目にした。こめかみに破片が刺さっていた。港から自宅まで約300メートル。「(船を降りて)すぐに帰宅していれば、母は死なずに済んだかもしれない」と悔しさをにじませた。

 慰霊碑に手を合わせた村出身の長嶺福信さん(70)=西原町=は、事故が県内であまり知られていないことを憂う。体験者の聞き取りをしてきたが、「事故の事実を聞き取る取り組みが重要だ。報道ももっとしてほしい」と話した。