<未来に伝える沖縄戦>戦場で命は惜しくなかった 仲里正子さん


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 1927年5月、石垣町(現石垣市)に生まれ、小学校の先生になることを夢見た仲里正子さん(91)。皇民化教育の影響を受け、ひめゆり学徒隊として沖縄戦の戦渦に巻き込まれていきます。6月18日に「解散命令」を受けた後、8月22日までの約2カ月、「日本が負けるはずがない」と信じて逃げ続けました。仲里さんの話を、南風原中学校2年の金城智巴弥さん(13)、下地舞さん(14)が聞きました。

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解散命令後も約2カ月、戦場を逃げ続けた体験を語る仲里正子さん=7月14日、糸満市

 《小学校時代、戦争への恐怖はありませんでした》

 小学生のとき、日本は中国で戦争をしていました(日中戦争)。「国のために頑張ってください」と、八重山から出征兵を見送ることがありました。当時の私は、戦争はそんなに大変なことだとは感じていませんでした。学校の勉強で「国民は国のために、天皇のために命を惜しまないように」という教えを受けていたからです。

 《先生になる夢を持った仲里さんは、那覇にあった県立第一高等女学校に進学します。戦争が近づくにつれ、勉強の内容が変わってしまいます》

 友だちの親に先生をしている人が多くいて、憧れました。友だちと一緒に県立第一高等女学校を受験し、合格しました。40年4月、学校のある那覇で寮生活が始まりました。

 2年生になった頃から「英語は敵国の言葉だ」と言われ、最終的に全面禁止になりました。私が2年生だった41年12月、太平洋戦争が始まりました。

 戦争が始まった日、私たちは講堂に集められて、校長先生から「(ハワイの)真珠湾を攻撃して日本が勝った」と聞きました。戦争は「正義の戦争だ」と教えられていて、勝利を喜んだのです。

 《44年4月に沖縄師範学校女子部本科に入学した仲里さん。10月10日、那覇が10・10空襲を受けました》

 空襲の日、那覇の空は真っ赤に燃えました。「戦争ってこんなものなのか」と驚きました。それでも「日本は絶対に負けない」と信じ、むしろ「頑張ろう」と思いました。

 沖縄の地上戦が確実視されてきた11月頃、衛生兵らが学校に来て、私たちは看護教育を受けました。45年2月頃には南風原まで行って、病院になっていた国民学校の校舎で注射や手術のやり方を教わりました。

※続きは8月8日付紙面をご覧ください。