100回目の節目を迎えた夏の甲子園は史上最多の56校が出場し、例年以上の盛り上がりを見せている。
2年連続出場となる沖縄代表の興南は9日、土浦日大(茨城)との初戦を6―2で快勝。沖縄勢の夏通算70勝目を飾り、15日の2回戦に臨む。
100回目の夏。その節目に人一倍強い思いを抱いているのが興南の我喜屋優監督だ。
7月、甲子園出場を決めた県大会決勝後のインタビューでこう語っている。
「50回大会でベスト4に進出した。100回大会だけは、甲子園に出たい気持ちがどこのチームよりも強かった」
■米統治下、沖縄沸かせた快進撃
沖縄勢が初めて甲子園に出場したのは1958年の第40回記念大会だった。当時の沖縄は米国の統治下にあり、球児たちが持ち帰ろうとした甲子園の土は植物防疫法により持ち込みが認められず、那覇港への上陸目前で海に捨てたのは有名なエピソードだ。
それから10年後の68年。
我喜屋監督は興南の主将で4番打者、中堅手として50回大会に出場した。
それまで沖縄のチームは春夏合わせて1勝しかしていなかった。興南は2勝の壁を破ると、打撃力を武器にあれよあれよと勝ち上がり、ベスト4に進出する快進撃を見せた。
「興南旋風」に沖縄中が沸き、帰沖後の盛大な歓迎式とパレードには「大げさ」と批判も起こるほどのフィーバーぶりだった。
当時はパスポートを手に、船と夜行列車を乗り継いで甲子園入りした時代。主将だった我喜屋監督は「授業は英語ですか」などと質問されることもあったといい、沖縄は日本にとってまだ遠い存在だった。
■そして春夏連覇の偉業
我喜屋監督は高校卒業後、社会人野球で活躍し、大昭和製紙北海道時代の74年には都市対抗大会で北海道勢初の優勝に貢献した。現役引退後は同チームの監督などを務めた後、2007年に母校の監督に就任するとわずか3年で史上6校目の甲子園春夏連覇に導いた。初出場から52年。沖縄にとって悲願だった夏の「深紅の大旗」を手にし、県民を再び熱狂の渦に巻き込んだ。
あの夏、筆者は甲子園球場にいた。
当時は兵庫県の地元紙で記者をしていた。
準決勝の興南―報徳戦。甲子園の名勝負の一つに挙げられるこの試合を、私は兵庫代表の報徳側で取材していた。
四回までに報徳が5点をリードする展開。報徳有利のムードが漂う記者席で、沖縄出身者の私はただ一人「いや、まだ分かりませんよ」と言い続け先輩記者をあきれさせた。
ウチナーンチュの思いを背に、興南は五回から打線が爆発、試合を一気にひっくり返し6―5で決勝進出を決めた。さらに決勝では東海大相模(神奈川)を攻守で圧倒し、13―1で下した。
このとき、優勝後の勝利者インタビューで我如古盛次主将が発した「沖縄県民で勝ち取った優勝だと思っている」というフレーズは一躍有名になったが、我喜屋監督もまた印象深い言葉を残している。
「パスポートを持って甲子園に来た僕も先輩たちも、今日という日が来ることを想像もしていなかったと思う。安堵(あんど)感というより感慨深い」
「4強入り以来、42年間待ちに待った。あのときは見えなかった優勝がはっきりと見えた。いろんな歴史を思い返し、胸が熱くなった」
球場全体を3周した歓喜と万歳のウエーブ。あの場にいた人にとって忘れられない光景だ。
興南の優勝原稿を書いていいと言われた私は、原稿をこう締めくくった。「決勝翌日の22日、沖縄は旧盆で先祖を迎えるウンケー(お迎え)の日。深紅の優勝旗というこれ以上ない土産を手に、ナインは故郷に帰る」
■興南旋風を再び
今年の夏。甲子園出場を決めた直後、我喜屋監督と出くわすことがあった。
久しぶりに間近で見た監督は顔も体も締まっているように見えた。
「なんか引き締まったんじゃないですか」と声を掛けると「わかる?最近はお酒も控えているから」とにやりと笑って返してくれた。短い言葉だったが、力強い握手とともに気合を感じた。
「100回目の記念大会で沖縄旋風を起こして県民と感動を分かち合いたい」。我喜屋監督がこれほど意気込みを率直に言葉にするのも珍しい。
猛者たちが集う100回大会の主役になれるか。まずは15日の2回戦、3年連続夏出場の木更津総合(東千葉)との試合に注目したい。
(琉球新報デジタル編集担当・大城周子)