社会

75年前、米軍が奄美沖で撃沈「嘉義丸」 乗船者と救助者、初対面 

初対面を喜ぶ嘉義丸撃沈の生存者の仲本康子さん(左)と救助に当たった金城テルさん=26日、名護市役所

 【北部】1943年5月26日、米潜水艦によって撃沈された航路船「嘉義丸」(2344トン)の生存者・仲本康子さん(77)=本部町=と、沈没直後に奄美大島で救命や看護に当たった金城テルさん(91)=那覇市=が26日、名護市内で初めて対面した。戦時遭難船舶遺族会(島袋林功会長)によると、嘉義丸撃沈で321人(県内283人、県外38人)が犠牲になった。当時の記憶を共有した2人は「戦を二度と起こしてはいけない。嘉義丸を沖縄全体で継承してほしい」と願った。

 当時3歳の仲本さんは父古堅宗善さん、母サエさん、弟宗仁さんと乗船した。戦況が悪化するとみて、それまで暮らしていた大阪から沖縄に戻る途中だった。嘉義丸撃沈で母を失った。幼かった仲本さんは、投げ出された海で周囲の大人の足に必死にしがみついていたと聞かされた。その後、別の船に救助された。45年の沖縄戦では父が伊江島で亡くなった。


 当時16歳だった金城さんは奄美大島の名瀬に暮らし、看護学生だった。負傷者の手当てに当ったが、海岸で遺体も目撃した。金城さんは「負傷者の肉はえぐれ、ガーゼを当てるなど手当てした。島は数日慌ただしかった。痛ましい記憶として今も焼き付いている」と目を伏せて仲本さんに語った。

 2人の初対面は11月をめどに嘉義丸に関する平和学習が開催されることをきっかけに、戦時遭難船舶遺族会を通じて実現した。2人は抱き合って対面を喜んだ。金城さんの旧姓は前田。戦後に県出身の男性と結婚し、現在沖縄で暮らしている。嘉義丸の生存者と会うのは今回が初めてだという。「嘉義丸と関わり、その後沖縄で暮らしたことは運命だったかもしれない」と金城さん。仲本さんから「お母さんみたいな印象だ」と言われ、戦争の記憶を語っていた金城さんの険しい表情は一変し、笑顔になった。2人は「嘉義丸の記憶を継承してほしい」と強調した。