沖縄の代表を住民が直接選ぶ主席公選から10日でちょうど50年となる。27年に及ぶ過酷な米施統治に立ち向かう沖縄の自治権獲得への挑戦であり、その実現は、1972年の施政権返還と並び、住民による自治権獲得闘争の大きな成果といえる。
保守と革新共闘初対決
戦後、米国の施政権下にあった沖縄では、米側の最高司令官である高等弁務官が琉球政府のトップである行政主席を任命する制度が採用されていた。52年の琉球政府発足から68年の主席公選まで4人の行政主席が任命された。
沖縄を統治していた米国民政府(USCAR)は52年3月2日の第1回立法院選挙で、沖縄の本土復帰を推進していた人民党書記長の瀬長亀次郎氏と社大党委員長の平良辰雄氏らの当選を受け、主席公選の無期限延期を発表した。公選を実施すれば、米国にとって不利な政治家が当選する可能性があると判断したとみられる。
だが、強権的な沖縄統治や米兵による凶悪事件、米軍機の墜落などが相次ぎ、住民の自治権拡大運動の機運がしぼむことはなかった。とりわけ、56年の軍用地の長期使用のための地料一括払いなどを勧告したプライス勧告に端を発した「島ぐるみ土地闘争」や教職員の政治行為を禁じた「教公二法阻止闘争」などの自治権拡大を求める住民運動は、基地を安定使用したい米国にも大きな影響を与え、主席公選や本土復帰に向けて大きなうねりとなった。
教公二法阻止闘争翌年の68年2月には、アンガー高等弁務官が主席公選を実施すると発表した。主席公選は、基地問題と施政権返還に対する姿勢が大きな争点となり、投票率は89・11%に上った。米軍基地の「即時無条件全面返還」を訴えた革新共闘統一候補の屋良朝苗氏が、基地の段階的な縮小による「本土との一体化」政策を掲げた沖縄自民党で前那覇市長の西銘順治氏を大差で破った。
選挙戦は保守と革新共闘が対決する初めての構図となった。今年9月に実施された県知事選と同様に、主席公選では、本土から政治家や政党幹部らが大量投入され、さながら本土の「代理戦争」の様相を呈した。主席公選で生まれた「革新共闘」という政治潮流は半世紀が経過した今でも受け継がれ、2014年の知事選では、革新共闘に経済界や保守の一部が加わる「オール沖縄」という新たな政治潮流も生まれ、玉城県政誕生の原動力となった。
主席公選で、表向きは中立的立場を取った米政府側は水面下で西銘氏を支援した。2010年に公開された外交文書では、日米両政府が西銘氏を当選させるため、70年に実現した国政選挙への参加を西銘氏の実績づくりに利用する裏工作を重ねていたことが発覚した。また米側の文書で、72万ドルの資金が県内保守陣営に投入されたことも明らかになっている。
住民が代表を直接選んだ主席公選から半世紀。名護市辺野古では県民の反対を無視する形で新基地建設が進み、沖縄の過重な基地負担は続いている。復帰運動の原点である「基地のない平和な沖縄」実現にはほど遠いのが現状だ。
変わらない現実 選挙結果を無視
県民が自らの投票で沖縄のリーダーを選ぶことが初めて実現した主席公選から50年の今年は、9月に県知事選が実施された。中央からの選挙介入や選挙結果を顧みない日米両政府の強硬姿勢など、半世紀を経ても変わらない基地の島沖縄を巡る政治の現実が横たわっている。
主席公選の発表は1968年2月の立法院でのアンガー高等弁務官による発表だったが、アンガー氏は那覇市長の西銘順治氏らに主席公選の検討を早い段階から伝えていた。アンガー氏は「自民党は勝てるのか」と迫り、選挙で反米的な行政主席が誕生しないかを警戒していた。主席公選に立候補した西銘氏は、親米保守の立場から本土との「一体化政策」を唱え、本土の自民党も川島正次郎副総裁や福田赳夫幹事長、中曽根康弘運輸大臣など閣僚や大物政治家を相次いで沖縄に送り込む支援態勢をとった。
西銘氏を支援した沖縄自民党の吉元栄真副総裁が上京し、選挙資金として計72万ドルの支援を受けたことも明らかになっている。資金の輸送は自民党本部、沖縄自民党、米政府が一体となって「仕組み」を協議し、吉元氏は具体的な受け渡し方法を高等弁務官と相談していた。
一方、革新統一候補の屋良朝苗氏は美濃部亮吉東京都知事、蜷川虎三京都府知事ら全国の著名な革新首長や学識者などの支持を集めた。保守、革新双方とも政治家やタレントらが大挙し、本土の「代理戦争」の様相を呈した。
今年9月30日の知事選でも、日米両政府で合意した辺野古新基地建設を進めるため、菅義偉官房長官や小泉進次郎衆院議員が何度も沖縄入りして保守系候補を応援するなど、自民、公明の政権与党によるかつてない支援が取られた。
強力な政権与党のてこ入れにもかかわらず、知事選は辺野古新基地建設を訴えた玉城デニー氏が過去最多得票で初当選した。だが政府は知事選の結果に反し、前県政の埋め立て承認の撤回処分により止まっていた辺野古埋め立て工事の再開へと動きだしている。初の公選主席となった屋良氏の唱えた「核も基地もない沖縄」と乖離(かいり)した復帰の姿など、米軍基地の安定的な運用の前に軽んじられる沖縄の民意という構造が今と重なる。