琉球政府主席公選から50年 石川元平氏(元沖教組委員長)に聞く(主席公選時屋良氏秘書) 施政権返還に影響


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 50年前の主席公選で当選した屋良朝苗氏の選挙戦に秘書として付き添った元沖教組委員長の石川元平氏に聞いた。

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 なぜ米軍は主席選挙を認めざるを得なかったか。重要な節目が1967年の教公二法阻止闘争だった。教員の政治行為について最初は「制限」という文言から「禁止」という内容となった。政党や労働組合の力が弱い時代に復帰運動の中心を担っていたのが教職員だった。教職員の復帰運動を政治運動と見なして止めようとする法律だった。法律を認めてはいけないという運動は教職員以外にも広がって最終的には2万5千人が立法院を包囲した。

 立法院では定例会の開会日に高等弁務官がメッセージを発するのが恒例だが、教公二法阻止闘争のためにアンガー高等弁務官はメッセージを発することができなかった。米軍は民衆の力を見ていて、統治自体が難しくなると判断したのだろう。翌68年2月1日、主席公選の実施を発表したアンガー高等弁務官による立法院での歴史的なメッセージはいきなりの出来事ではなく、自治権獲得に立ち上がった県民の闘いの経緯があった。

 主席公選実施の発表を受けて、68年4月に革新統一候補として屋良朝苗さんの擁立が決まった。沖縄で初めての全県選挙だったので大変だった。沖縄教職員会の総務部に所属していた私は、11月の選挙までの8カ月間、かばん持ちとして共にすることになった。西表島では橋の架かっていない浦内川を屋良さんとてんびん棒をかついで渡り、黒潮の激しい流れの中をカツオ船に揺られて波照間島に渡った。

 祖国復帰協議会の目標は「即時無条件全面返還」をだったが、屋良さんは「核も基地もない沖縄をつくる」という分かりやすい言葉で語り掛けた。相手候補の西銘順治さんは復帰に反対はしないが、時期はまだ早いという尚早論だった。だからイモ・はだしの時代に戻るという言い方になった。復帰運動を担ってきた屋良先生に復帰を託そうという結果になった。

 米国は中立を装っていたが、中央の自由民主党を介して西銘陣営に資金を流していたことも分かっている。日米両政府が金力、権力を使って力ずくでくるのをはね返して屋良さんは初の公選主席になった。沖縄の施政権を日本に返還することで合意した69年11月の佐藤・ニクソン会談は、屋良主席の誕生が日米両政府に大きな影響を与え、具体的な対応をせざるを得ないところに追い込んだ。

 だが、結果として屋良さんが訴えた核も基地もない復帰はかなえられなかった。日本政府は沖縄を捨て石にし、米軍も沖縄は太平洋のキーストーン(要石)と石扱いだ。復帰の内実は今に通じる県民無視であり、屋良主席の悔しさは歴代知事までずっと引きずっている。対米従属の中で続く日本の政治の堕落を乗り越えなければいけない。 (談)