<未来に伝える沖縄戦>台湾で学徒二等兵に 泉川寛さん


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 西原村(現西原町)千原出身の泉川寛さん(88)=宜野湾市我如古=は教師だった父親の転勤で、日本の支配下にあった台湾に移住し、学徒二等兵として戦争を体験しました。日本の敗戦後は台湾人と日本人の立場が逆転し、いじめられることもありました。混乱のため、台湾から沖縄に帰ってきたのは敗戦から1年以上も後でした。泉川さんの話を嘉数中1年の座間味優奈さん(12)、金城七星さん(13)が聞きました。

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泉川 寛さん

 〈泉川さんは小学校3年で台湾へ引っ越します〉

 1939年8月、2学期の授業から台中の渓州小学校に通いました。日本人ばかりで約160人がいました。当時、台湾の人は公学校と呼ばれる私たちとは別の学校に通っていました。おそらくお金持ちだった2~3人の台湾人だけが同じ学級にいました。

 沖縄でもあった「方言札」みたいなものが台湾にもあったのです。台湾語を使ったら「方言を使うな、日本語を使え」と言われていました。教師の父親は台湾の学校で、台湾人を対象に教えていました。父は差別を嫌がっていましたが、大半の日本人は台湾人を支配し、威張っていました。「チャンコロ」という蔑称で呼んでいる人もいました。

 〈泉川さんは戦争に向け、技術を学ぼうと現在の中学校に当たる台中州立工業学校に進学します〉

 中学1、2年時は授業がありましたが、ほとんど勉強していません。飛行場を敵から隠すため石垣を造る作業に駆り出されました。川から石を拾ってばかりいました。

 2年生の頃から空襲もありました。寮から売店に買い物に行こうとしていた時、急に空から機銃掃射で攻撃を受けました。慌てて屋根の下に隠れましたが、恐ろしい思いをしました。

 14歳で予科練の試験を受けました。小学校の時から「み国のために命をささげなさい」という教育だったので早く予科練の試験が受けたくてたまりませんでした。戦闘機を操縦して敵を攻撃したかったのです。

 43人受けて、39人が合格します。落ちた4人のうち1人が私でした。必要な身長にあと5センチ足りなかったからです。どうしてこんなに小さく生んだのかと親を恨むほど悔しい思いをしました。

 〈出征していく先輩や友人もいました〉

 上級生が出征する時に小指を切り、布に血を染みこませて日の丸を作りました。三つ上で大分出身の優しかった先輩を見送る時は同級生3人で日の丸を作って、列車で見えなくなるまで手を振りました。

 3年の時、青紙で召集されました。1週間、家に帰って相談しなさいと言われましたが、当時は「行くのをやめなさい」という親はおらず、みんなが学徒二等兵となりました。

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 〈学徒二等兵となると、学校が部隊の駐屯地になります〉

 当時は米軍がフィリピンから台湾に上陸するのを恐れていました。米軍が上陸したら中国と挟み撃ちにされる。逃げ道がなくなるので「死ぬ覚悟でいないと」と指導を受けました。

 午前中は、戦車の模型に向かって体当たりをする訓練でした。円すい爆弾の模型を付けた竹棒で、高さ2~3メートルの戦車の操縦席を突くのです。操縦席に竹棒を当て、道路脇の壕に伏せるのを繰り返す訓練でした。

 午後はトロッコのレールを造る鍛冶屋の作業です。鋼が入っているから最後にカチンカチンとたたいて仕上げるときはきつい作業で、手に豆ができました。学徒二等兵200人で、1年間に1万5千本のレールを造るノルマがありました。終戦までの約半年で、8千個ほど造りました。

 その切れっ端が残るので、ドス(小さな刀)を作っていました。誰がうまく作れるか競って遊ぶのが慰みになりました。

 銃剣を持って門の前に立ち、見張り役をする「衛兵」の担当が回ってくるとつらかったです。1日3人、1時間交代で立たなければいけません。話もできないし、夜は眠くてしょうがありませんでした。

※続きは11月14日付紙面をご覧ください。