<県民投票 特別評論>過去の傷痕終わりに 与那嶺松一郎・政治部県政キャップ


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K9護岸(手前)付近に停泊する大型作業船や土砂運搬船=7日午後、名護市の大浦湾(小型無人機で撮影)

 「沖縄は傷ついた県民投票の歴史を持っている」(江上能義早稲田大・琉球大名誉教授)
 辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票は、来年2月24日の投開票が決まった。1996年の大田県政時代の県民投票以来23年ぶり2度目となり、全国でも都道府県レベルで住民投票が実施されるのは沖縄以外にない。また、普天間飛行場の移設問題に住民意思を直接示すという意味では、97年の名護市民投票も、この歴史の流れの中に位置付けられる。過去2回の県民投票は必ずしも成功だったとばかりはいえず、その傷は今も沖縄の政治や社会の中に“かさぶた”となって続いている。

■民意と逆に

 1995年に発生した少女乱暴事件により米軍基地の撤去を求める沖縄の訴えが全国を揺るがすさなか、96年9月8日の県民投票を迎えた。投票率は59・53%。有効投票52万8770票のうち、日米地位協定の見直しと基地の整理縮小に「賛成」が48万2538票を占めた。

 当時の大田昌秀知事は米軍基地の強制使用にあらがい、基地提供を拒んだ地主に代わって県知事が土地調書に署名押印する「代理署名」を拒否していた。国が県知事を提訴する事態に至り、全国でも初めての県民投票へ知事を後押しする機運が高まった。だが、県民投票の2週間前に最高裁で敗訴していた大田知事は、投票から5日後、政府の強制使用手続きの公告縦覧代行に応じる対応を取る。

 翌97年12月21日の名護市民投票は、米軍普天間飛行場の返還に伴う海上基地移設の賛否を巡り、市を二分する激しい選挙となった。投票率は82・45%まで高まり、受け入れに「反対」1万6639票、「賛成」1万4267票と約2300票差で反対多数の結果となった。

 だが、当時の比嘉鉄也市長は投票の3日後に上京して官邸で首相に面談すると、投票結果に反して基地の受け入れを伝達。自らは市長の職を辞すという衝撃的な展開をたどった。

 国の専権事項とされる国防や外交の問題であっても、住民自らの投票でこれ以上の基地負担は受け入れ難いという民意の在りかを内外に示した県民、市民投票の歴史的な意義が揺らぐことはない。ただ、住民の示した投票結果と違う方向へと沖縄の政治が進んだことも、私たちが目撃した事実だった。直接投票に向かうエネルギーが大きかっただけに、その反動は虚脱感や失望につながった。

■民主政治の手続き

 今回の県民投票を巡っては、市町村議会が投票事務に必要な補正予算案を否決することで、県民投票を実施できない市町村が出てくるという懸念が出てきている。沖縄内部の政治によって直接投票が無力化され、投票に参加する機会さえ奪われる有権者が出てくるならば、私たちは過去2回と同じ不幸な歴史を繰り返してしまうことになる。

 宜野湾市議会は県民投票に反対の意見書を賛成多数で可決した。普天間基地の被害を受ける当事者にとって、移設に賛成か反対かで端的に意思表示できないという複雑な心情の訴えがあることを、市民を代表する議会が示した意思として重く受け止めなくてはいけない。

 ただ、県民投票に反対の議会意思を示すことと、予算案を否決して投票自体を止めることは全く次元が異なる議論だ。

 県民投票は、地方自治法が求める規定数を大きく上回る9万2848筆の住民署名が県内全市町村から集まり、県議会での条例可決の手続きを踏んで法律に基づく実施が確定している。二元代表制の担い手として投票によって選ばれた首長や議員は、県民投票の趣旨に賛否はあったとしても、それとは別の立場で、地域の住民が投票に参加する権利を保障する役割があるはずだ。

 そこへ予算承認の権限を行使し、法で認めた投票の権利を奪うことにちゅうちょがない議会人がいるならば、沖縄の議会政治はあまりにたがが外れている。

 「何をやってもどうせ意味ないさ」と冷笑的に政治や基地問題に距離を置く態度を有権者に取らせてしまうことこそ、過去の県民投票が負った傷だ。今回の県民投票で41市町村がそろわず白けた空気で実施されれば、移設を強行する政府を利するというのはその通りだろう。しかしそれ以上に、投票を通じて自らの意思を示すことの力を過小に評価した、卑屈な主権者意識が広がることを何より恐れる。

 長く膠着(こうちゃく)する問題に県民が賛成か反対かの意思を示す機会が公平に与えられ、また投票権を行使しないという選択も有権者の投票の自由に委ねられるものだ。これ以上、政治不信、無関心のかさぶたを重ねることは終わりにしよう。