<未来に伝える沖縄戦>銃弾 右足首えぐる 仲井間小夜子さん


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 恩納村恩納出身の仲井間小夜子さん(90)=沖縄市諸見里=は父親の転勤先で、当時日本の委任統治下にあったロタ島で戦争を体験しました。年中温暖だった南洋群島での暮らしを終え、沖縄に引き揚げてきたのは寒い冬のことだったそうです。仲井間さんの話を沖縄市立山内中学校の仲村樹さん(15)と知念星来さん(15)が聞きました。

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「目が覚めると隣にいた人が亡くなっていた」と語る仲井間小夜子さん=沖縄市

 〈恩納村で生まれ恩納尋常高等小学校に通っていた仲井間さんは小学生の頃に引っ越します〉

 県の土木課に務め海外への派遣が多かった父・喜久山樽良さんの転勤先であるサイパン島アギーガンに家族全員が向かったのは小学2、3年生の頃でした。サイパンは果物がいっぱいあって台風はなく、本当に楽園のような所でした。暖かい気候で毎日が楽しかった。小学6年生の頃までは。

 〈穏やかな学校生活に戦争の影が迫ってきます〉

 ある日から兵隊さんが私の通うアスリート国民学校に来るようになりました。兵隊さんは「きみたちは天皇陛下の子どもだから男の子は軍人になって、女の子は看護婦になってけがの手当をしながら天皇陛下のために死ぬのだ」と言っていました。当時は戦争も死ぬという意味も全然わかっていなかった。「死んできなさい」と教えられていたので、勉強をして天皇陛下のために死ねばいいのだと単純に考えていました。

 朝は決まりとして登校前にオオタニワタリを一人100本摘んで兵隊さんに持って行きました。この草は食べ物になっていました。学校に着くと兵隊さんが「小国民の守ること」と題した決まり事を毎日黒板に書きました。小国民とは子どものことです。「子どもを泣かせるな」「夜に火をつけるな」など敵に見つからないための心得を教えられました。

 このころから四つ上の兄は徴用されており軍の伝令役をしていたそうです。

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 〈1943年頃に仲井間さん家族は父の仕事の都合でロタ島へ移住します〉

 ロタ島のシャカージャに移住しましたが、数カ月もしないうちに父が徴用されていきました。涙もろい父が泣きそうな顔をして家を出て行った姿を今でも覚えています。大きな屋敷に残された私と母と弟。日本兵がその家を接収しました。

 ロタには沖縄のようなガマはなく、山のくぼ地に簡単な住まいを作り、そこに村人が4、5家族ほど入っていました。家を出された私たちもそこに住みました。私の母・マツはみそを作れたので、兵隊の要望で手作りみそを週に1回のペースで持って行きました。その代わりにカニの缶詰などおいしそうなものを持ち帰ってきていました。そんな日々も突然終わり戦争が始まりました。

 〈44年6月11日、米軍はサイパン島やロタ島、テニアン島などへの集中攻撃を開始しました〉

 日中は海から艦砲射撃、夜間も昼かと思うくらいに照明弾が降り注ぎ、外を歩くのも難しくなりました。兵隊がいる家に米やしょうゆを取りに行くことも簡単ではなくなりました。それでも食料を取りに行かなければいけないので、地面をはって外に出て食料を探していました。母親たちは攻撃のすきを見て作物がなっているという遠くの畑まで行っていたそうです。

 徴用されていた父と兄は10日に1回のペースで帰宅していました。その二人からサイパンでは敵に殺されるより家族で海に身を投げて亡くなった人が多くいたと聞きました。父は「銃剣で突かれて死んでも海に落ちて死んでも死ぬのは一緒だから、アメリカが来たらみんなで輪を作り殺されるなら殺されよう」と言っていました。

 〈ロタ島では地上戦はありませんでしたが、けがや危ない目には遭いました〉

 ある日、畑で作物を取ろうとすると流れ弾で右足首をけがしました。皮膚がえぐれてしまい、真っ赤なざくろの実のようになっていました。一生足に障がいが残ると思っていましたが、親の手当のかいあってか歩くにも問題なく、跡もうっすら見える程度になりました。

 高校生の年齢の女子は当番で巡回する看護婦さんの手伝いをしていました。ロタには比嘉とみえさんという名護出身で20歳ぐらいの看護婦さんがいました。薬はなかったけれど、壕を回り簡単な薬の調合などをしている人でした。

 ある日、手伝いをするため、とみえさんと共に壕の外に出ました。80メートルほど歩いた所で爆弾が落ちました。目が覚めると周りのおばちゃんたちに「生きてる? 小夜ちゃん、小夜ちゃん」と体を揺すられました。しばらく気を失っていたようです。

 その間に死んだと思われた私を埋める穴が掘られていました。「看護婦さんは」と問うと、周りにいた人は互いに目を合わせ「指令本部の病院にいるよ」と言いました。しかし、その数日後、爆弾の衝撃で即死していたことがわかりました。横にいた私は無傷でしたが、とみえさんは右のお尻がえぐられていたようです。亡くなったと知り、私は号泣しました。

 当時、死ぬことは名誉だと教えられており、泣くと怒られましたが、かわいがってくれた看護婦さんの死は悲しくて仕方ありませんでした。後日、彼女が埋葬された所に行き、土まんじゅうをつかんで泣いたことを今でもはっきり覚えています。戦争で泣いたのはとみえさんが亡くなった時だけでした。

※続きは12月19日付紙面をご覧ください。