「沖縄のナガミネ君、どうかお元気で」―。宮崎県宮崎市に住む大坪裕さん(83)は戦時中、沖縄から宮崎市の赤江国民学校に疎開していた同い年の少年“ナガミネ君”を捜している。大坪さんは、凄惨(せいさん)な戦争を経験し、戦後も過重な基地負担を強いられる沖縄の現状に心を痛め、地元の新聞に日米地位協定の見直しなどを求める寄稿を続けてきた。体調を崩し寝込むことも多くなった今、「同じ時代を生きたナガミネ君が今も元気でいるのか、どうしても知りたい」と思い、琉球新報に宛て手紙をしたためた。
1945年1月、当時4年生だった大坪さんの通う赤江国民学校に、戦禍を逃れるため同年代の子どもたちが沖縄から疎開してきた。その年は例年以上に冷え込みが厳しく、大坪さんは「家族と離れ離れの上、はだしで、手は霜焼けしている沖縄の子どもたちをとても気の毒に感じた」という。状況を説明すると、母親は家族の分の食料もままならない中、ナガミネ君らを何度も自宅へ招き入れ、炊いたサツマイモを食べさせた。
戦前、父親が台湾の日本人学校に勤務した際、多くの県出身の友人に恵まれたこともあり、大坪さんの両親は日頃から「沖縄の人たちには良くしてあげたい」と子どもたちに語っていたという。
自宅には毎回複数の子どもたちが来ていたが、特に同い年のナガミネ君とは意気投合し、親しくなった。ただ、最後はどのように別れたのかは覚えていない。
大坪さんは当時を思い出す度に、時代に翻弄(ほんろう)されたナガミネ君の無事やその後どのような道を歩んだのかを案じている。
「お元気だったら私と同じ82歳か83歳。戦後の人生や辺野古新基地建設について、ナガミネ君はどう考えているのかなぁ。電話でもいい、死ぬ前にもう一度、話してみたい」。大坪さんは70余年越しの再会を願っている。
情報提供は琉球新報社会部(電話)098(865)5158へ。
(当銘千絵)