総力戦、冷戦の「捨て石」に 沖縄・小笠原の犠牲と引き替えにした日本の「平和」<小笠原と沖縄―返還50年の先に>4


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 2018年6月に返還50年を迎えた小笠原諸島の歴史経験はどう捉えられるのか。明治学院大の石原俊教授(歴史社会学)に聞いた。 (聞き手・當山幸都)

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小笠原諸島の歩みについて「複雑な歴史があり、島民の苦難があった」と説明する石原俊明治学院大教授=東京都の同大

 ―小笠原諸島の歴史をどう見るか。

 「小笠原はもともと無人島で、捕鯨が盛んだった19世紀に帆船で海を移動し過ごしていた欧米系や太平洋諸島系の人たちが住み着いた。難波船の遭難者もいれば、厳しい捕鯨船の労働から逃れた人や、一部だが海賊もいた。当時の小笠原は海洋グローバル社会の縮図のような場所で、日本史の枠組みで捉えることができず、大げさに言えば背景にはコロンブス以来の海の世界史がある」

 「明治政府は北海道や琉球を併合し、1876年に小笠原の領有に成功した。その意味で沖縄と同時代性があるが、小笠原はそれまではどの国家にも組み込まれておらず、琉球王国のような政権があった場所ではなかったという違いもある」

 ―その後の歩みは。

 「『南洋』というカテゴリーができた19世紀終わりごろ、それは小笠原や沖縄県の大東諸島を指していた。サトウキビを中心とする入植の前線は南へ拡大していくが、そのプロセスは、帝国日本が植民地化や委任統治を進める時期と重なる。こうして小笠原を含む南洋の島々は軍事的な飛び石にもなっていった」

 「1920年代の砂糖価格の暴落で沖縄は『ソテツ地獄』に苦しんだが、小笠原はそれほど深刻ではなかった。東京市場にアクセスが良く野菜栽培に転換できたからで、『カボチャ成金』という言葉さえあった。ところが太平洋戦争下の44年に住民約7千人が本土へ強制疎開させられてしまう。戦後は米国の占領下に置かれ、欧米系島民を除いて米軍は島民の帰島を拒み続けた」

捕鯨が盛んだった戦前の父島(小笠原村教育委員会提供)

 ―小笠原の中でも硫黄島では地上戦があった。

 「硫黄島民も男性103人が地上戦に動員され、生き残ったのは10人だった。米統治下では秘密基地として核兵器が置かれ、68年の施政権返還後も自衛隊が駐留した。硫黄島民は現在まで一人も帰れておらず、強制疎開から74年たってなお故郷喪失状態だ。国は希望する硫黄島民を年に数週間程度は故郷に滞在させるなど、はっきりとした責任を取るべきだ。これをやらない限り硫黄島民の戦後は終わらないというか、始まらない」

日本に施政権が返還された1968年の返還式典(小笠原村教育委員会提供)

 ―小笠原は沖縄より4年早く返還50年を迎えた。

 「日本はアジア太平洋戦争で沖縄の島々とともに、硫黄島を含む小笠原の島々を降伏引き延ばしのための『捨て石』として扱った。戦後の日本は沖縄に米軍基地を押し付け、小笠原も米軍が秘密基地にし島民を難民化させたままにすることと引き換えに、主権を回復し戦後復興や『平和』を得た。沖縄とともに小笠原は、日本の総力戦の『捨て石』とされ、さらに冷戦下の日本の『捨て石』とされた」

 「返還により父島や母島には四半世紀ぶりに島民が帰れるようになったが、失われた生活基盤を取り戻すのは大変だった。米統治下で島の開発が進まず、手つかずの自然が残ったことが世界自然遺産登録につながり、現在のエコツーリズムを軸とした観光につながっている皮肉な部分もあるが、その裏で島民の歴史的苦難があったことを強調したい」