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大好きな洋裁を市場で 時代とともに業種変え…閉店 本音は「続けたい」〈まちぐゎーあちねー物語 変わる公設市場〉4 卒業(下)大浜純子さん


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 沖縄料理を出す食堂が軒を連ねる第一牧志公設市場2階。昼時は海外から来た観光客の中国語や英語が飛び交う。大浜純子さん(75)は、その2階の一角で土産品店「大浜民芸」を営んでいる。19年前までは洋服の仕立屋を切り盛りしていた。「もう潮時かな」。大浜さんは市場の建て替えを機に店を畳む。

土産品を販売する大浜純子さんは6月の市場建て替えを機に店を畳む。19年前まで仕立屋を営んでいた=1月、那覇市松尾の第一牧志公設市場2階

 疎開先の台湾生まれ、石垣・那覇育ち。台湾で洋裁の仕事をしていた母のミシンが自宅にあり、幼い頃から裁縫が好きだ。高校の制服のスカートは自分で縫った。「技術があった方がいい」との母の勧めで、高校卒業後は上京し、新宿の洋裁学校に通った。昼は働き、夜に学校に通う日々。だが、課題をこなすために買ったミシンが盗まれ、1年半で学校に通えなくなった。

 好きな洋裁を諦めて富山に嫁いだが、編み物に出合い、再び洋裁を始めた。1970年ごろに帰郷。第二市場で働きながら編み物の学校に通い、75年ごろには第一市場2階に移った。

 作業服店、洋服の直し店、電気店―。当時の第一市場2階は「まさにチャンプルーだった」と大浜さん。そこに店を構え、親戚と3人で編み機を使い、洋服を仕立てた。冬は毛糸でセーター、夏は夏用の糸でサマースーツやフレアスカート。生地から編んで作る大浜さんの洋服は客の評判がよく、注文が殺到した。「雑誌を持ってきて、これを作ってって。年中忙しかった」。大好きな洋裁ができることに「うれしかった」とほほ笑んだ。

定位置に座ってお客さんを待つ大浜純子さん。「無理だと自分にいい聞かせてる」と話す様子がさみしげだ

 食堂が徐々に増えた2階に観光客が集まるようになったのは、1階で買った食材を2階で調理する「持ち上げ制度」が導入された80年代後半以降だと、大浜さんは記憶している。大型のショッピングセンターが増えた時期とも重なった。洋服をスーパーで買えるようになって注文は激減。仕立屋は次々と撤退した。大浜さんも19年前に紅型柄の小物やシーサーなどを売る土産品店に切り替えた。しかしその後も客は減った。「小さい店は厳しい」。そう痛感していた時に市場の建て替えが決まり、店を畳むと決意した。

 本音は「東京オリンピックまで続けたかった」。64年の東京オリンピックの年に東京で洋裁を学んだ思い出があるからだ。「でもここに戻るのは3年後で80歳目の前でしょ? 無理だと自分に言い聞かせてますよ」。自らを説得する表情がさみしげに映った。
 (田吹遥子)

(琉球新報 2019年3月5日掲載)