深夜の那覇。感情のこもった、心が揺さぶられるような歌声が響く。ジャズを聴かせる「インタリュード」の店内だ。戦後沖縄を代表する伝説のジャズボーカリスト・与世山澄子さん(77)が今もマイクを握る。
名曲「レフト・アローン」の作曲者にして世界的なジャズピアニスト、マル・ウォルドロンと共演し、2枚のアルバムをつくった与世山さん。感傷的・情緒的で、それでいて力強い歌声は、聴く者をたちまち魅了する。だからこそ、その歌声は、国境も出自も超えて、孤高のピアニストの心をもつかんだのだろう。
だが昼間の与世山さんはごく控えめで、物静かだ。多くの著名人との共演も、何ら誇ることなく「幸せでした」と語るだけだ。県内外から多くの称賛と尊敬を集める伝説の歌姫とは思えない。ただ一つ「誰かの歌に学んだのか」との問いに「誰かのコピーは全くない」と答えた時だけ、歌い手としての静かな自負をのぞかせた。
60年以上 好きだから歌い続けた
―1984年、世界的ピアニストのマル・ウォルドロンとの共作「ウィズ・マル」を制作した。翌年には第2作「DUO」を発表している。なぜウォルドロンと共演できたのか。
「レコード会社の企画だった。もちろんマルさんのレコードは(それまでも)よく聴いていた。その前にマルさんのコンサートが八重山であり、レコード会社からそこへ行くように言われた。マルさんの演奏にちょっと共演させてもらい、(共作に)OKが出た」
―共演してどうだったか。
「世界の一流の人だから、ただ恐れ多くて。共演させていただいただけで幸せでした」
―アルバムを聴くと、与世山さんはリラックスして歌っているように聞こえる。
「こっちがずうずうしかったのか(笑)。確かに、とても親切にしていただいた。2枚ご一緒させていただいたのでね。鍛えられる場所があったのは幸せです」
―与世山さんの英語の発音は日本人とは思えない。独学なのか。
「中学生の時、機会があって外国人に教えてもらった。徹底的に練習した。ある程度英語ができれば会話は通じるけど、歌というのは詩でしょう。だから(意味を深く理解して)しっかり表現しないといけない」
本土デビューより 沖縄が合っていた
―小浜島生まれで、中国から引き揚げ、小学生の時に那覇に来た。音楽教室に通って歌を習ったそうだが。
「そこの先生が米軍キャンプで演奏していた。当時はたくさんの(ジャズ)バンドが沖縄にあった」
―ご一家は音楽好きだったのか。
「いや、そうでもない。ただ祖母が、初めて沖縄の歌をレコードに吹き込んだ仲本マサ子で、宮良長包の妹です。ちょっとしたDNAをもらったのかもしれない(笑)」
―小学6年生の時に米軍キャンプで歌ったとか。
「そのバンドの人たちに、遊びに連れていってもらって」
―拍手喝采だった。
「沖縄のちっちゃい女の子が横文字の歌を歌っている、という物珍しさがあったのでしょう」
―そこで歌に開眼した。
「それで歌が好きになって」
―16歳でデビューした。
「仕事としていただいたのが16歳。その前も、中学2年、3年にはもう(米軍キャンプに)行ったり来たりしていた」
―デビュー時は高校生では。
「そう(笑)。こんなこと言ったら怒られるけど(笑)。ほぼ毎晩歌っていた」
―実力が認められた。
「聴いてなんぼの世界だから。その人(米兵)たちに本当に伝わる歌でなければ雇ってもらえない」
―だからボブ・ホープが来沖した時、レス・ブラウン・オーケストラと共演できた。
「あれはゲストとして招かれた。せっかく沖縄に来たので、親善という意味だったのだろうけれど」
―本土での活動の話もあった。
「ええ。復帰直前に本土でデビューするという話があり、その方向で動いてもらったのだけど、『どうしても自分には沖縄が合っている』と思って、3カ月で戻ってきた」
―なぜ。
「普段は外人の前で歌っている。それが民間の人の前だと、雰囲気が違った。やはり本場の人たちの前で歌うのが自分にはなじんでいた。2、3年いれば、あちらの有名な人たちと肩を並べたかもしれないけど、自分には沖縄が合っていた」
―戻ったのは正しい選択だったか。
「正しいかというより、自分にはその選択が合っていた。欲を言えば、いろいろ展開するんだろうけれど。自分にはそれ(その選択)がイージー(楽)だったんでしょう」
―その後本土復帰して、キャンプの仕事は減った。
「民間(相手)では(ジャズ演奏で)生活できるような環境ではなくなった。本当に生の演奏をしっかり聴かせる場所が欲しい。そうでないと(よい奏者は)育たない」
今まで公演中止なし ライブが生きがい
―今も東北や東京などのライブハウスで歌っている。
「ライブハウスやプロモーターから声が掛かり、毎年2回、6月と12月に2週間ずつ、北海道から東北、東京、大阪、九州と回っている。(その間)ほぼ毎日歌っている」
―すごい体力だ。
「確かに、年は取っていくし(笑)。でもライブはいろんな出会いがあるし、それが生きがいです」
―風邪などで(予定していたライブを)休んだことはないのか。
「ありません」
― 一度も?
「ええ。プロとして仕事をして、チケットが既に売れてますからね。(休まないのは)当然です」
―デビューから60年余も歌い続けている。長く続けてこられた理由は。
「やはり好きでなければできなかった。米国の音楽に魅了されてきたのは確かです」
―影響を受けたのは。
「ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルド。超一流のこの人たちの歌はよく聴いたし、影響を受けた」
―歌う時に心掛けていることは。
「歌を歌として表現し、相手にきちんと伝わることが一番大切だ。人前で歌うからには、相手に通じる歌い方をしっかり勉強しなくては」
―誰かの歌っている姿を見て学んだことは。
「いえ、お手本としてはビリー・ホリデイたちだが、誰かのコピーというのは全然ない」
―歌をやめようと思ったことは。
「正直言って全くない。歌うのが好きだから」
(聞き手 編集局長・普久原均)
よせやま・すみこ
1940年、八重山小浜島(竹富町)生まれ。ジャズボーカリストとして16歳でデビュー、米軍基地内のクラブで歌う。72年、那覇市にジャズスポット「インタリュード」をオープン。84、85年、世界的ピアニストのマル・ウォルドロンとの共作「ウィズ・マル」「DUO」を発表。県外での公演もこなし、県内外から高い称賛を集める。
取材を終えて 心揺さぶる魂の歌声
昼間のインタビューとは別に、夜のライブを訪ねた。おもむろにピアノの横に立ち、無言で譜面をピアニストに渡す与世山さん。これからの曲の歌詞を要約して静かに語る。
歌い始めると、まるで劇中の人物が乗り移ったかのようだ。歌詞の世界が眼前に広がるような錯覚を覚えた。感情のこもった歌声が聴く者の胸を揺さぶる。
だが昼間に会うと、同一人物とは思えないほど物静かだ。なぜ60年以上もプロとして歌い続けられたか。はにかむように「ただ歌が好きだっただけ」と語るが、謙虚ゆえでなく、全くの本心だと思わせる。
「自分には沖縄が合っていた」と語るが、沖縄に居ながらにして世界的奏者と共演できたこと自体、与世山さんの歌の高みを表しているように思う。
(琉球新報 2017年9月4日掲載)