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誰のコピーでもない 与世山澄子さん(ジャズボーカリスト) 〈ゆくい語り・沖縄へのメッセージ〉4


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ジャズボーカリストとしての自身の歩みを語る与世山澄子さん=2017年8月24日、那覇市安里のインタリュード(新里圭蔵撮影)

 深夜の那覇。感情のこもった、心が揺さぶられるような歌声が響く。ジャズを聴かせる「インタリュード」の店内だ。戦後沖縄を代表する伝説のジャズボーカリスト・与世山澄子さん(77)が今もマイクを握る。

 名曲「レフト・アローン」の作曲者にして世界的なジャズピアニスト、マル・ウォルドロンと共演し、2枚のアルバムをつくった与世山さん。感傷的・情緒的で、それでいて力強い歌声は、聴く者をたちまち魅了する。だからこそ、その歌声は、国境も出自も超えて、孤高のピアニストの心をもつかんだのだろう。

 だが昼間の与世山さんはごく控えめで、物静かだ。多くの著名人との共演も、何ら誇ることなく「幸せでした」と語るだけだ。県内外から多くの称賛と尊敬を集める伝説の歌姫とは思えない。ただ一つ「誰かの歌に学んだのか」との問いに「誰かのコピーは全くない」と答えた時だけ、歌い手としての静かな自負をのぞかせた。

60年以上 好きだから歌い続けた

ライブで、感情豊かにジャズのバラードを聴かせる与世山澄子さん(右)=2017年8月23日夜、那覇市安里の「インタリュード」

 ―1984年、世界的ピアニストのマル・ウォルドロンとの共作「ウィズ・マル」を制作した。翌年には第2作「DUO」を発表している。なぜウォルドロンと共演できたのか。

 「レコード会社の企画だった。もちろんマルさんのレコードは(それまでも)よく聴いていた。その前にマルさんのコンサートが八重山であり、レコード会社からそこへ行くように言われた。マルさんの演奏にちょっと共演させてもらい、(共作に)OKが出た」

 ―共演してどうだったか。

 「世界の一流の人だから、ただ恐れ多くて。共演させていただいただけで幸せでした」

 ―アルバムを聴くと、与世山さんはリラックスして歌っているように聞こえる。

 「こっちがずうずうしかったのか(笑)。確かに、とても親切にしていただいた。2枚ご一緒させていただいたのでね。鍛えられる場所があったのは幸せです」

 ―与世山さんの英語の発音は日本人とは思えない。独学なのか。

 「中学生の時、機会があって外国人に教えてもらった。徹底的に練習した。ある程度英語ができれば会話は通じるけど、歌というのは詩でしょう。だから(意味を深く理解して)しっかり表現しないといけない」

本土デビューより 沖縄が合っていた

 ―小浜島生まれで、中国から引き揚げ、小学生の時に那覇に来た。音楽教室に通って歌を習ったそうだが。

 「そこの先生が米軍キャンプで演奏していた。当時はたくさんの(ジャズ)バンドが沖縄にあった」

 ―ご一家は音楽好きだったのか。

 「いや、そうでもない。ただ祖母が、初めて沖縄の歌をレコードに吹き込んだ仲本マサ子で、宮良長包の妹です。ちょっとしたDNAをもらったのかもしれない(笑)」

 ―小学6年生の時に米軍キャンプで歌ったとか。

 「そのバンドの人たちに、遊びに連れていってもらって」

 ―拍手喝采だった。

 「沖縄のちっちゃい女の子が横文字の歌を歌っている、という物珍しさがあったのでしょう」

 ―そこで歌に開眼した。

 「それで歌が好きになって」

 ―16歳でデビューした。

 「仕事としていただいたのが16歳。その前も、中学2年、3年にはもう(米軍キャンプに)行ったり来たりしていた」

 ―デビュー時は高校生では。

 「そう(笑)。こんなこと言ったら怒られるけど(笑)。ほぼ毎晩歌っていた」

 ―実力が認められた。

 「聴いてなんぼの世界だから。その人(米兵)たちに本当に伝わる歌でなければ雇ってもらえない」

 ―だからボブ・ホープが来沖した時、レス・ブラウン・オーケストラと共演できた。

 「あれはゲストとして招かれた。せっかく沖縄に来たので、親善という意味だったのだろうけれど」

 ―本土での活動の話もあった。

 「ええ。復帰直前に本土でデビューするという話があり、その方向で動いてもらったのだけど、『どうしても自分には沖縄が合っている』と思って、3カ月で戻ってきた」

 ―なぜ。

 「普段は外人の前で歌っている。それが民間の人の前だと、雰囲気が違った。やはり本場の人たちの前で歌うのが自分にはなじんでいた。2、3年いれば、あちらの有名な人たちと肩を並べたかもしれないけど、自分には沖縄が合っていた」

 ―戻ったのは正しい選択だったか。

 「正しいかというより、自分にはその選択が合っていた。欲を言えば、いろいろ展開するんだろうけれど。自分にはそれ(その選択)がイージー(楽)だったんでしょう」

 ―その後本土復帰して、キャンプの仕事は減った。

 「民間(相手)では(ジャズ演奏で)生活できるような環境ではなくなった。本当に生の演奏をしっかり聴かせる場所が欲しい。そうでないと(よい奏者は)育たない」

今まで公演中止なし ライブが生きがい

 ―今も東北や東京などのライブハウスで歌っている。

 「ライブハウスやプロモーターから声が掛かり、毎年2回、6月と12月に2週間ずつ、北海道から東北、東京、大阪、九州と回っている。(その間)ほぼ毎日歌っている」

マル・ウォルドロン(左)と共演した際の与世山さん

 ―すごい体力だ。

 「確かに、年は取っていくし(笑)。でもライブはいろんな出会いがあるし、それが生きがいです」

 ―風邪などで(予定していたライブを)休んだことはないのか。

 「ありません」

 ― 一度も?

 「ええ。プロとして仕事をして、チケットが既に売れてますからね。(休まないのは)当然です」

 ―デビューから60年余も歌い続けている。長く続けてこられた理由は。

 「やはり好きでなければできなかった。米国の音楽に魅了されてきたのは確かです」

 ―影響を受けたのは。

 「ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルド。超一流のこの人たちの歌はよく聴いたし、影響を受けた」

 ―歌う時に心掛けていることは。

 「歌を歌として表現し、相手にきちんと伝わることが一番大切だ。人前で歌うからには、相手に通じる歌い方をしっかり勉強しなくては」

 ―誰かの歌っている姿を見て学んだことは。

 「いえ、お手本としてはビリー・ホリデイたちだが、誰かのコピーというのは全然ない」

 ―歌をやめようと思ったことは。

 「正直言って全くない。歌うのが好きだから」

(聞き手 編集局長・普久原均)

 

よせやま・すみこ

 1940年、八重山小浜島(竹富町)生まれ。ジャズボーカリストとして16歳でデビュー、米軍基地内のクラブで歌う。72年、那覇市にジャズスポット「インタリュード」をオープン。84、85年、世界的ピアニストのマル・ウォルドロンとの共作「ウィズ・マル」「DUO」を発表。県外での公演もこなし、県内外から高い称賛を集める。

取材を終えて 心揺さぶる魂の歌声

普久原 均

 昼間のインタビューとは別に、夜のライブを訪ねた。おもむろにピアノの横に立ち、無言で譜面をピアニストに渡す与世山さん。これからの曲の歌詞を要約して静かに語る。

 歌い始めると、まるで劇中の人物が乗り移ったかのようだ。歌詞の世界が眼前に広がるような錯覚を覚えた。感情のこもった歌声が聴く者の胸を揺さぶる。

 だが昼間に会うと、同一人物とは思えないほど物静かだ。なぜ60年以上もプロとして歌い続けられたか。はにかむように「ただ歌が好きだっただけ」と語るが、謙虚ゆえでなく、全くの本心だと思わせる。

 「自分には沖縄が合っていた」と語るが、沖縄に居ながらにして世界的奏者と共演できたこと自体、与世山さんの歌の高みを表しているように思う。

(琉球新報 2017年9月4日掲載)