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音楽は命を支えるものでなければいけない 加藤登紀子さん(歌手) 〈ゆくい語り・沖縄へのメッセージ〉5


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沖縄への思いを語る加藤登紀子さん=東京都渋谷区千駄ヶ谷のトキコ・プランニング

 作曲家であり作詞家であり、訳詞家、女優、声優でもある。多才の人だが、何よりも傑出した歌手であることを疑う人はいないだろう。加藤登紀子さん(73)の低音の美声を、故森繁久弥さんは「ツンドラの風が乗った声」と評した。

 沖縄に通い始めて40年以上になる。故嘉手苅林昌さんにかわいがられるなど沖縄の多くの音楽家と深い縁を持つ。

 旧満州(中国東北部)に生まれ「言いしれぬ悲しさを宿した北の大地が心の中にある」加藤さん。「引き揚げで、内地に少し違和感を感じ」ながら育ち、受け入れてもらうことを「どこかに探し求めて」きた。「沖縄と出会えて、奥の地層ですごく分かってくれる安心感」を感じたという。

 時には辺野古新基地に反対する市民のテントを訪れ、激励することもある。「戦争が町や農地を破壊し、飢えと貧困からテロリストが生まれる。だからこそ土を、共同体を守ることが大切だ」と呼び掛ける。

 沖縄や日本、アジアの歌を熱心に掘り起こしてもいる。「いよいよという時に音楽は命を支えるものでなければいけない。風土の力を借りなければ、音楽はそこまでの生命力を持てない」。柔らかい物腰の奥に、毅然(きぜん)とした意思がほの見える。

沖縄との出会い すごく大きかった

 ―加藤さんの「知床旅情」のレコードを覚えている。

 「私が生まれて初めて沖縄の旋律を歌ったのが『知床旅情』のカップリング曲だった『西武門哀歌』でした。それが1970年で、まだ復帰前。当時、テレビで『西武門哀歌』を歌った時、バイトの学生が駆け寄ってきて『僕の故郷の歌、歌ってくれてありがとう』と熱っぽく言ってくれた。沖縄出身の人で、復帰前だからいわば留学生として東京に来ていたのね。その場面をすごく覚えています」

色っぽい旋律 気持ち自然に

数々の名曲をしっとりとした美声で聴かせ、観客を魅了する加藤登紀子さん=2010年10月23日、宜野湾市の宜野湾海浜公園屋外劇場(又吉康秀撮影)

 ―「西武門―」を歌うきっかけは。

 「その歌を私に教えてくれたのは(フォーク歌手の)高石ともやさん。69年『ひとり寝の子守唄』を出し、フォークのコンサートに出演し始めたころ、琵琶湖のほとりでともやさんと1対1で朝までセッションしたことがあり、ともやさんが目の前で『西武門哀歌』を歌ったの。『いい歌ね。絶対私が歌った方が合っている』と思った(笑)。その場で教えてもらい、覚えたんです」

 ―この歌のどこに引かれたのか。

 「メロディーがとにかく色っぽい。沖縄の旋律は気持ちが自然にあふれ出る感じなの。すごく楽に歌える。当時『登紀子は色気がない』とよく言われた(笑)。『ひとり寝の子守唄』も男のふりをして歌ってます。『西武門哀歌』はもろ、女の歌。それに身を委ねたときの自分の色っぽさに驚いた(笑)」

 ―74年、沖縄でコンサートをした。

 「72年に歌手を辞めるくらいのつもりで夫(学生運動の指導者だった藤本敏夫さん)と獄中結婚し、出産を経て73年に歌手に復帰したんです。娘が1歳になった74年、沖縄で初コンサートをしました。同行していた母が、娘を連れて名護の民家を見てきて『登紀子、素晴らしいよ。豚がいて、鶏がいて、赤瓦の家で、本当に夢のように美しい村だった』と話していました。海洋博前の名護。断片的だけど、私は昔の名残を残す沖縄を見ていたので、その後の変化していく沖縄を見ることができた。私の人生にとって重大な沖縄初旅となりました」

 「すごかったのは上原直彦さんに普久原恒勇さんや嘉手苅林昌さんとの飲み会をセットしてもらったこと。お歴々の前で『歌え』と言われ、試されているとぶるぶる震えつつ『西武門哀歌』などを歌った。その時、林昌さんはずっと横を向いていて直接、会話を交わすこともなかったんです」

風土に根差す 音楽の生命力

名護市辺野古の座り込み現場を訪れ、地元の関係者と記念撮影する加藤登紀子さん(前列右から2人目)=2009年9月

 ―その後も沖縄を訪れ続けた。

 「94年ごろ、嘉手苅(林昌)さんが大きなコンサートを開かれた時『(加藤さんを指して)俺の女が東京に一人いるぜ』と言っていて(笑)、パンフレットにコメントを、と言われたの。震えが来るくらい感動して、その後で『逢(あ)い引きしよう』と手紙を書いた(笑)。当時、夏ごとに読谷の大嶺實清さんのところに通っていたので、嘉手苅さんとヤギ汁屋で『逢い引き』、子ども3人も一緒に(笑)。嘉手苅さんが私を民謡酒場に連れていき、その夜、私を観客席に置いて歌ってくださったんです。(嘉手苅さんは99年に亡くなり)再会できてから亡くなるまでがあまりにも早かったのが残念」

 ―いろんな縁があったからアルバム「沖縄情歌」を出すに至った。

 「そう。これは夫が他界した翌年です。他界した年(2002年)は歌手としても忙しく、病院の近くでレコーディングしていた。そのレコーディング中に他界し、1曲も夫に聴かせられなかった。この世を去ろうとする人に、自分は歌手として何もできず、妻としても中途半端だった。その後、私はどうしたらいいんだろうと感じていたんです」

 「夫は『自分に1年くらい時間があるなら沖縄に行きたい』としきりに言っていた。3番目の娘が沖縄に住んでいたから」

 「夫の死後2年はオリジナルの歌を歌えなかった。沖縄の歌は遠いところへ連れて行ってくれ、体を楽にしてくれるから、これなら(夫に対して)『最後にこれを聞いて』って言えたはずだと思った。魂を癒やすというか。だから鎮魂の意味もこめて『沖縄情歌』を出したのです」

 ―沖縄が他と違うところは。

 「私自身は満州で生まれ、言いしれぬ悲しさを宿した北の大地が心の中にある。引き揚げで、内地で少し違和感を覚えながら青春時代を送り、受け入れてもらう土地をどこかで探し求めている。そこで沖縄と出会えて、すごく大きかった。一番伝わる、表面でなく奥の地層の中に、何を感じて歌ってきたか、すごく分かってくれるという安心感がある」

 ―2015年には辺野古のゲート前の(新基地建設に反対する市民の)テント村を訪れて激励した。

 「たまたま、前日のほろ酔いコンサートに古謝(美佐子)さんが飛び入りで来てくれて、誘ったの」

 ―ゲート前で加藤さんは「戦争で町や農地が破壊され、飢えと貧困の中でテロリストが生まれる。だからこそ土を守る、共同体を守る、家族を守ることが戦争を止めることにもつながる」と訴えた。

 「土に根差した強さは、無力かもしれないけど根こそぎにはされない。だから土に根差したところに、どんなに大変でも立ち返って、そこから一つずつ紡ぐ、その覚悟を持つことがすごく大切だ、と思う」

 「音楽が国を超える時、パスポートは要らない。誰にもとがめられず心の中に宝として持てるのが音楽だ。歌というものはいよいよという時に命を支えるものでなければいけない。風土の力をもらわないと音楽はそこまでの生命力を持てない」

(聞き手 編集局長・普久原均)

かとう・ときこ

 1943年、旧満州(中国東北部)生まれ。東京大学在学中の65年、シャンソンコンクールに優勝して翌年デビュー。以後「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」「百万本のバラ」などが大ヒットした。白保のサンゴ保護でコンサートをし、毎年、沖縄市の「音市場」で「ほろ酔いコンサート」を開くなど沖縄との縁は深く、「沖縄情歌」以外にも複数のアルバムで沖縄にちなむ歌を収録している。

取材を終えて 響く根源のメッセージ

普久原 均

 東日本大震災の年に加藤さんは「命結」(ぬちゆい)というアルバムを発表した。その収録の時「古里に住めないという想像を絶する悲しみがある時、背中を押してくれるような声を出してくれ」と新良幸人さんに頼んだそうだ。すると新良さんはまさにそのような声を一発で出したのだという。「命は何があっても絶望しない、どんなに周りが絶望で埋め尽くされても、最後は生きるということしか考えない。そういう根源のメッセージが沖縄の人の声の中にはある」と語る。

 まさに同じことが、加藤さんの声にも言えるのだと思う。悲しみを抱えるが故の、包容力を感じさせる声だ。心の芯のところで共鳴する部分があるからこそ、加藤さんと沖縄の縁は深いのだろう。

(琉球新報 2017年10月2日掲載)