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差別 向き合う使命 津嘉山正種さん(俳優) 〈ゆくい語り・沖縄へのメッセージ〉6


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「他県出身の俳優とは違う使命がある」と語る津嘉山正種さん=東京都渋谷区の劇団青年座(花城太撮影)

 演技派で鳴らす津嘉山正種さん(73)は俳優として複数の受賞歴を持つ。物静かで気品あるたたずまいは優雅ですらある。

 そんな津嘉山さんも下積み時代は長かった。役が付かないこと7年。「このままでは沖縄に帰れない」と耐えた。出世作となった1987年の舞台「NINAGAWAマクベス」での主演は鮮烈だった。だがその裏では日に2度も病院に通う壮絶な「声との闘い」があったという。長い下積みがあったればこそ、必死につかみ取った主役だった。

 上京後、見ず知らずの沖縄出身者に何度も助けられた。「ただ名字が同じだけで助けてくれる。そんな県、ほかにありますか」。郷里への思いは熱い。

 それゆえか、今も新基地を押し付けられる故郷の境遇に静かな憤りをのぞかせる。「あれ(辺野古)が本土の県なら違う形の対処だったろう」「根深い差別は、人類館事件のあった100年前と何も変わっていない」

 だからこそ明言する。「そういう(差別といった)テーマが流れている作品を選んでやっていく。他県出身の俳優とは違う使命みたいなものが、俺にはあるのかもしれない」。毅然(きぜん)とした姿に、意志の強さがほの見えた。

「人類館」 差別の歴史を思い上演

朗読劇「人類館」を演じ、胸に迫る語り口で観客を引きつける津嘉山正種さん=2009年11月、浦添市の国立劇場おきなわ小劇場

 ―津嘉山さんが主演した1987年の『NINAGAWAマクベス』を帝国劇場で見て深い感銘を受けた。

 「ロンドン公演直前に主役の平幹二朗さんが体調を崩し、降板することになった。そこでマクベスの僚友バンクォーを演じていた私にマクベスをやってもらえないかと話が来た。帝劇はその凱旋(がいせん)公演だ」

 「1日2公演が多い過酷なスケジュールだったが、何より声が大変だった。本番前の朝、病院へ行き、のどを診せて薬をもらう。昼の公演を終えるとまた病院へ行き、1時間、点滴を受ける。夜の公演を終えるとホテルでのどを温湿布する。劇場でも出番を待つ間、舞台袖で温湿布するという毎日だ。よく持ったと思う」

 ―琉球放送に勤めた後、上京した。

 「琉球放送での給料が22ドルだった。家が貧しかったから20ドルを家に入れ、残り2ドルと残業代で工面していた。テレビ編成の仕事だったが、沖縄でドラマを制作したいという気持ちが芽生え、演劇を勉強しないといけないと思い始めた。退社し、上京資金を稼ぐため、百科事典を米軍人にセールスする会社に入った。セールストークの英語を丸暗記し、重いかばんを抱えて辺野古、嘉手納と売り歩いた」

 「そうしてためた200ドルを手に上京し、劇団に入った。当時、沖縄ではそれだけあれば家が建ったが、半年でなくなった。生命保険の外交員になったが全く駄目。バーテンダーなどいろんなバイトをし、最終的にたどり着いたのがトラックの運転手だった。ごみを積んで夢の島へ1日3〜4往復する。日給はバーテンの3倍で、自分の空いている日に行けばいい。芝居のない日は毎日働き、金をためては芝居のために備えた。おかげで4トンまでならどんなトラックでも運転できる自信が付いた」

沖縄の仲間を思い 改姓思いとどまる

 「劇団員には芝居の切符を売るノルマがある。(東京に)知人・友人がいない私はある時、電話帳で津嘉山姓を探して片っ端から電話し、事情を説明した。すると、見ず知らずなのに3人の方が買ってくれた」

 「『津嘉山』という姓はなかなか読んでもらえず、改名して『嘉』の字を取ろうかとも考えた。だが東京に出してくれた沖縄の仲間たちを思い、改名しなかった。その津嘉山という姓の方が岐阜にいて、私の存在を何かの折に知ったのだろう、全く知らない方なのに地方公演や盆暮れにはランなどを贈ってくれる。その交流が10年以上続いている。こんなことが他県出身であるだろうか」

古里への思いや、俳優としての人生を振り返る津嘉山正種さん=東京都渋谷区の劇団青年座

 ―『人類館』の上演を続けている。

 「作者の知念正真さんは琉球放送で机を並べた仲だ。『人類館』は沖縄への思いを全部吐き出すつもりで書いたと話していた。いつか参加したいと思っていたが、ネックは言葉で、登場人物は純粋なうちなーぐちを話せなくてはいけない。東京の人だけで上演はできず、かといって私が沖縄で十分な稽古をする時間もなかなか取れなかった。ある時、『一人語りにしたらどうか』と思いついた。1人3役で、その3役がそれぞれどんどん変化する。知念さんに連絡すると『いいよ。面白いね』と言われた。この作品は朗読劇に向いているかもしれない。朗読劇だと時空を飛び越えることができるからだ」

 ―上演にはどんな思いがあるのか。

 「人類館事件があった100年前と変わってないということだ。辺野古(新基地)の問題も、知事が何と言おうが結局、沖縄に押し付ける。そういう歴史が戦前から続く。根深いところで差別につながっている。あれがもし本土の県だったら、きっと違う形の対処になっただろう。オスプレイも他県なら地元が断固拒否すれば政府も考慮せざるを得ない。米軍人が沖縄にいてどれだけの事件を起こしているかみんな知っているのに、見て見ぬふりの戦後70年だ。その裏にあるのは何なのか。そういうテーマが流れる作品を選び、演じていく、他県出身の俳優とは違う使命のようなものが自分にはある気がする」

 ―映画『カメジロー』にも出た。

 「(瀬長)亀次郎さんについて書かれた本を読み、感銘を受けた。一番胸に響いたのは、米軍が資金凍結で(瀬長市長時代の)那覇市政を滞らせた時、市民がその日の稼ぎを持って市役所に長蛇の列をつくり、それを見て亀次郎さんは『こういう市民は他にいない、私は幸せ者だよ。断固頑張らないと』と語る場面だ」

 ―『人類館』の朗読劇は、声優でもある津嘉山さんならでは、だ。

 「今、やっと日本語を滞りなく話せるようになった。『人類館』も冒頭は日本人で、うちなーぐちが少しでも交じると成立しない。完璧な東京弁でやり、逆転してうちなーぐちになる。東京弁の50年の苦労は『人類館』をやって報われた気がする」

山岡さんにささげたオマージュ

 ―上京は当初、3年の予定だった。

 「とにかく役が付かない。それが延々7年も続いた。そんな時、先輩の山岡久乃さんが台本をくれた。ボクサーの一人語りの芝居だった。そこで劇団の隣のボクシングジムに通い、2カ月たって月謝を払おうとしたら、ジムの会長が『1年分、山岡さんからもらっている』という。『この子はこのままだと辞めて帰っちゃう』と思ったのだろう。結局、その作品の上演はできなかったが、俳優を続けていく大きな支えになった」

 「生涯返せぬ恩がある山岡さんも亡くなり、ボクシングを使った作品で恩返しをと思ったが、ふさわしい脚本がない。では俺が書こうと思って一人語りの芝居『10カウント ある老ボクサーの夢』を書いた。沖縄出身の、かませ犬のようになった老いぼれボクサーの話だ。山岡さんにささげるオマージュ(献辞)だった」

(聞き手 編集局長・普久原均)

つかやま・まさね

 1944年生まれ、那覇市出身。65年に青年座入団。87年「NINAGAWAマクベス」に主演。NHK・FM「クロスオーバーイレブン」のナレーションでも知られる。数多くの舞台、映画、テレビに出演するほか声優として

取材を終えて 毅然たる姿 大人の風格

普久原 均

 帝国劇場の「NINAGAWAマクベス」で見た鬼気迫る演技は、神懸かりのようだった。広い劇場の最後部近くの席だったが、津嘉山さんのよく通る声はそんな席にまではっきり聞こえた。その裏に過酷な「声との闘い」があったとは驚きだ。「役者魂」とはこんなことを言うのだろう。

 東京にいながら沖縄のニュースに通じていることが、言葉の端々からうかがえる。「『津山』だと沖縄の仲間が気付いてくれない」と改名を思いとどまった逸話にも、古里への熱い思いが垣間見える。新基地建設は「差別」ときっぱり断言した。毅然(きぜん)とした姿が、大人の風格を感じさせた。

(琉球新報 2017年11月6日掲載)