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自分に進化 常に求め 友寄正人さん(日本野球機構審判長) 〈ゆくい語り・沖縄へのメッセージ〉7


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日本野球機構審判長の友寄正人さん。冷静なジャッジを心掛けたと話す=11月、東京都港区

 日本野球機構の審判長として、プロ野球審判のトップに立つ友寄正人さん(59)。優れた統率力は広く認められ、冷静で毅然(きぜん)とした審判ぶりは、選手からの信頼も厚かった。

 審判を志したのは小学生の頃という友寄さんでも、日々「とにかく普通に、普通に」と心掛けていた。自身の不完全ぶりを自覚し、球界のトップレベルに立った後も、常に新しいスタイルを模索し、自分に「進化」を求め続けた。

「完璧」がない仕事 だから面白い

 

 ―小学生でプロ野球審判を志した。

 「テレビで野球の試合を見ていて、やけに審判がかっこよく見えた。それが小学5年生のこと」

 ―選手としての経験は中学生時代の1年間だとか。

 「中学で野球部に入ったが、籍だけのようなもの(笑)。その後はずっとアマチュアの審判をしていた。高校2年の時、近くの奥武山球場に『審判をさせてほしい』と飛び込んだ。たまたまそこに県野球連盟会長だった国場幸輝さん(故人)がいて、そのままOKしてもらった」

 ―大学を中退してプロ野球の審判になった。

 「沖縄国際大2年の時、セ・リーグの審判を全国公募するという記事を見つけた。上京して試験を受けた」

 ―プロの野球はどうだったか。

 「スピードがアマチュアとは全く違う。最初は2軍で、3年目でようやく1軍の審判を経験した。1軍で球審をするまでに10年前後かかった」

試合でマスクをかぶることはなくなり、公式戦への審判員の配置や事務作業が中心の毎日を送る=東京都港区

 ―過去に18人しかいないプロ野球審判3千試合を達成した。友寄さんの後はもう出ないとも言われている。

 「ちょっと難しいでしょうね」

 ―どう受け止めているか。

 「目標にしていたわけでは全くない。この年齢まで現場に出られたから(できたことだ)」

 ―3千試合直前の春のキャンプでは「(3千試合の時も)自分のスタイルでやりたい」と語っていた。友寄さんのスタイルとは。

 「基本はハッスル。一生懸命やるということだ。年齢を重ねるごとに感じるのは、普通にジャッジすることが大事だということ。雑念を入れると見え方が変わってしまう。見た通り、そのまま判定する。とにかく普通に。普通にやるのが一番難しい」

 ―それが難しいのはなぜ。

 「いろんな試合展開がある。例えば、あるチームに気に入らない判定があったりすると、人間なのでその後のジャッジに影響してしまうこともある。そういうことのないように、普通に普通に、と(心掛けている)」

オフも鍛えないと後で絶対に響く

 ―自分のベストジャッジは。

 「全く思いつかない。当たって(正確で)当たり前の仕事なので。むしろ、大きなトラブルになったことは覚えている。自分の良いジャッジは覚えていないが、後輩のジャッジは『よく見たな』『いい位置で見ていたな』と思うことはある」

 ―つらい思いをしたことは。

 「今でこそリプレイ検証(録画映像に基づく検証)があるが、われわれのころはなかった。セ・リーグの優勝争いが佳境の時、1、2位が対戦する大きな試合で、ホームランをホームランでないと判定したことがある。結局、その試合、そう判定されたチームが1点差で負けた。判定の時点ではトラブルはなかったが、その回の攻撃が終わるとベンチが騒ぎ出したので『テレビのリプレイで見てホームランだったんだ』と感じ、試合後に記者が押し寄せた時点で『ああ、判定が正しくなかったんだ』と分かった。この仕事に過ちはついて回るものだが、『どうすれば正しいジャッジができたか』と反省した。過去の判定を、気にはしなくていいけど、反省はしなくてはいけない」

通算3000試合目となる2013年8月4日の巨人−阪神17回戦で球審を務める友寄正人さん=東京ドーム

 ―打者なら打率3割で、監督なら勝率5割台後半で一流と呼ばれるが、審判は正確さ10割が求められる。酷な仕事ではなかったか。

 「この仕事に10割というのは絶対ない。プロの審判で自分は完璧だと思う人は一人もいない。完璧になろう、なろうと努力していくものだ。逆に言えば、だから面白いのだけど」

 ―オフには審判も体を鍛えるとか。

 「オフに何もしていないと絶対響く。間違いなく1年を乗り切れない。途中でへばる。自分も最初のころはオフにのんびりしていた。するとオープン戦で椎間板ヘルニアが出て、それがたたった。その年からはジムに通い出した」

 ―日本シリーズでも球審を務め、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも審判に立った。

 「プロ野球として数少ない国際試合に出場できたのは名誉でもあり、うれしかったですよ」

2年に1回は構えを変えた

 ―小学生で野球の審判を目指し、頂点に立った。何がよかったのか。

 「審判という仕事には完璧がない。その分、いろんなことを試して自分を進化させてきた。現場を辞めるまでそうだった」

 ―具体的に言うと。

 「(審判は)ストライクやボール、アウトやセーフのジェスチャーも、立つ時の構え方も人によって違う。いつも同じだと新しいことを目指さなくなってしまう。僕は2年に1回くらい、必ず変えていた。春のキャンプはそれを試すことができるから、キャンプはいつも楽しみだった」

 「球審の普通の構えは『ボックス』と言い、斜めに構えるのを『シザース』と呼ぶ。右打者にはボックスで、左打者にはシザースで構えたこともある。バッターによって構え方を変えたのは自分が初めてではないか」

 ―沖縄について。

 「帰るたびに感じるのは、他県と比べて野球が盛んだということ。特に少年野球のチームが多くて、われわれとしてはうれしい限りだ」

 ―沖縄の野球少年、審判を目指す少年にメッセージを。

 「好きで野球をしていると思うが、ずっと続けてほしい。審判も、素直な心でやること。人のアドバイスを素直に受け止めることが大切だ。そういう姿勢がないと上達しない」

(聞き手 編集局長・普久原均)

ともよせ・まさと

 1958年生まれ。那覇市出身。78年、沖縄国際大を中退してセ・リーグの審判に。オールスターゲーム6回、日本シリーズ13回出場。2009年にはワールド・ベースボール・クラシックでも審判を務めた。13年に3千試合出場を達成、通算3025試合出場は歴代18位。14年から日本野球機構審判長。

取材を終えて 平常心の難しさ

普久原 均

 「審判がやけにかっこよく見えた」小学生が、20歳でプロ野球の審判になった。日本シリーズやWBCにも出場し、ついには審判長として頂点を極めるに至ったのだから、「審判人生」を体現したのだといえよう。

 そんな友寄さんだが、ご自身の見事な采配については全く言及しない。「むしろ大きなトラブルになったことを覚えている」と言う。「とにかく普通に、普通に。見た通り判定する。それが一番難しい」と語るのが印象的だ。

 冷静かつ安定した判定で知られる友寄さんにしてそうなのだ。平常心の難しさを改めて思い知らされる、含蓄のある話だった。

(琉球新報 2017年12月4日掲載)