喜如嘉芭蕉布会館に冬の淡い光線が差し込んでいる。工房の片隅に小柄な平良敏子さん(97)が腰掛け、静かに糸を績(う)む。左手と右手の指が、あるべき所へ目まぐるしく動く。結び目をつくるや否や、右手の小刀がはみ出た糸を切り、まるで結び目などなかったかのようになる。そのリズミカルで正確な動きは、まるで無言の音楽のようだ。
戦前、芭蕉布の価値が見失われかけたころ、その生産に情熱を燃やしたのが敏子さんの祖父であり父だった。
機の音を子守歌にして育ち、子どもの頃「ハイカラ敏ちゃん」と言われた敏子さんは、長じて民芸運動の大家から織物を教わり、戦後の荒廃した沖縄で芭蕉布の復興に没頭した。まさに芭蕉布を作るべくして作った半生と言える。
「織りは心」と言い、毎朝、鏡に「今日も偽りのない仕事をさせてください」と祈って物作りに向かう敏子さん。その真っすぐな人柄が「偽りのない」宝物のような作品群を生み出した。
心を映す織り 正直でなくちゃできない
―幼い頃から機(はた)に触れていた。
「機に上ったり母が織る足元にいたり、(機の音を)子守歌のように聞いて育ちました」
―戦時中、岡山へ渡った。
「(1944年に第4次沖縄県勤労女子)挺身(ていしん)隊として岡山の倉敷へ行った。倉敷紡績の工場が当時は国策で万寿航空機製作所になっていて(軍用機の)尾翼を作っていました」
「(柳宗悦らの民芸運動の熱心な参加者だった)大原(総一郎・倉敷紡績)社長には本当によくしていただきました。44年12月に岡山で初めて雪が降った日、とても寒い日でしたけど、画家の児島虎次郎先生のアトリエに招いてもらいました。大原家の別荘がそのアトリエでした。そこに(民芸運動の中心人物で陶芸家の)河井(寛次郎)先生もいらして、社長夫人の慰問会で『御前風(ぐじんふう)』や『かぎやで風』などを聞かせてくださった時には(沖縄挺身隊の)みんな嗚咽(おえつ)を漏らしました」
―戦後、倉敷で織りを学んだ。
「本土の人と違い、沖縄の人は戦後すぐには(沖縄が全滅したらしいという情報のため)帰るあてもありませんでした。64人が倉敷の工場に残ったけど、ひと月もたたないうちに私は大原社長に呼ばれました。『倉敷に沖縄の織物文化を残したい』とおっしゃり、『陶器はできるか』『染め物はできるか』と尋ねられた。『織りでしたら、産地(の生まれ)ですから少々のことは』と申し上げると、社長は『織物だったら外村(とのむら)さんがおられるね』とおっしゃった」
「芭蕉布物語」に感激 民芸の大家に学ぶ
「それから(民芸運動の染織家)外村吉之介先生に教わることになった。45年の暮れです。正月にはもう外村先生は疎開先の福井から倉敷の祐安(すけやす)に来ていた。喜如嘉の子2人と(大宜味村)津波の子、私の4人で毎日、祐安に通いました。10月に沖縄に帰るまで、織りの基礎や糸の染め方などいろいろ学びました」
「そこで柳先生の『芭蕉布物語』を見せてもらいました。外村先生はこの本の推敲(すいこう)のために戦前、喜如嘉へ渡って芭蕉布を調べていたのです。『芭蕉布がこんなに高く評価されている』と感激しました」
―沖縄に帰る時、見送りに来た大原社長の言葉が芭蕉布に取り組むきっかけになったと聞きます。
「そうです。外村先生と2人して『沖縄に帰ったら、沖縄の織物を守り育ててほしいなあ』っておっしゃった。『芭蕉布物語』を読んだ時から芭蕉布のことが心に引っ掛かっていました」
「私の祖父(平良真祥)も芭蕉布に情熱を注ぎました。織物消費税を掛けられて誰も作らなくなった時、各家庭を回って(糸績(う)みの)ナイフを配り、『ナイフ一つ(芭蕉布の繊維をつなぐ技術が)あれば食いはぐれない』と説得したそうです。父(真次)は父で駆けずり回って(大宜味村芭蕉布織物組合に)八重山から技術者を招いて競わせるなどしました。沖縄向けでない、輸出向けの柄を取り入れたのも父でした」
―沖縄に帰るとすぐに取り組んだのですか。
「いえ、沖縄に帰ったらそれどころではありませんでした。芭蕉畑もないですし」
―米軍が伐採したと聞きます。
「軒下とか家畜小屋のそばとかにイトバショウが少々あるだけでした。そこで(生活が落ち着いてから)米軍配給のテントや靴下、手袋を皆さんから譲ってもらい、洋服地を作るなどして始めました」
―戦前にはないものを作った。
「(喜如嘉の糸は繊細で着物向きだが、布をあまり織らない)隣の集落の人に『どんな糸でもいいから下さい』と買い取り、太い糸でテーブル掛けやクッションなど、倉敷で学んだ技術で作りました。それが米軍の人たちに受けたんです。将校の奥さんたちが『これなら買うわよ』と言って。(従来にないものを作るので)おばあさんたちからは呼び付けられ、『こんなものを作って!』と怒られました。でも『着尺には向かない糸なんです』と説明したんです。たくさん織りましたよ。本当に忙しくて、『(芭蕉布が作れない)夜がなければいいのに』と思うくらいでした」
織りの乱れは心の乱れ 「まあいいか」許されぬ
―外村さんから「織りの心を学んだ」と聞きます。「織りの心」とは。
「少し考え事をして糸を浮かしていたら外村先生が『敏さん、心ここにあらずだね』っておっしゃった。はっと思いました。織りっていうのは本当に正直でなくちゃできない。『まあいいか』というのは絶対に許されない。打ち込みが悪い、絣(かすり)の乱れがあるというのは、何か心が乱れているんです。心を平常にしないと」
―今も毎日作り続けている。
「何十年も毎朝7時に自転車で(大宜味村立)芭蕉布会館へ行き、水打ちをして仕事の準備をしていました。でも昨年末に体調を崩し、病院でやり残したことがあるんじゃないかと考え、『このまま死んじゃいけない』と思って(回復した)(笑)。今は(車で)送ってもらっています。毎日、糸績みをしていますよ。昼は痛くないけど、夜になると手が痛くなります」
(聞き手 編集局長・普久原均)
たいら・としこ
1921年2月14日、大宜味村喜如嘉生まれ。戦時中は勤労女子挺身隊として岡山で働き、戦後、染織家・外村吉之助氏から織りを学ぶ。46年に帰県、沖縄戦で壊滅状態にあった芭蕉布作りに喜如嘉で取り組む。63年芭蕉布織物工房設立。72年、県指定無形文化財「芭蕉布」保持者。2000年、重要無形文化財「芭蕉布」保持者(人間国宝)認定。
取材を終えて 芭蕉布をつないだ縁
平良敏子さんのお話をうかがうと、奇妙な符合に驚かされる。芭蕉布に情熱を燃やす家系に生まれた敏子さんが、万寿製作所に配属されたのは偶然のたまものだ。そこの大原社長が、芭蕉布に高い価値を見いだした柳宗悦の民芸運動の深い理解者だったのは、巡り合わせとしか言いようがない。不思議な縁に導かれ、芭蕉布を体現する存在となった。まさに天の配剤である。
芭蕉布会館で見る着尺は絵のような美しさだった。義理の娘の平良美恵子さんによると、上質の糸を績(う)める人はもうほとんどいないという。焦燥感にかられる。敏子さんがつないだ沖縄の宝は、失うには惜しすぎる。
(琉球新報 2018年6月4日掲載)