「謝謝(シェイシェイ)」「ありがとう」。色とりどりの海産物が並ぶ第一牧志公設市場の鮮魚コーナーに、威勢のいい声が響く。声の主は、長嶺鮮魚店の長嶺次江さん(77)。1960年ごろから働く、自他共に認める古株だ。浸水、火事、移転など困難をくぐり抜けてきた長嶺さんには「この市場をなんとしても守りたい」との強い思いがある。
糸満市出身で父は漁師。叔母の故文子さんを手伝い、牧志で魚を売るようになったのは18歳の頃だ。「食べるために働かないといけない」。魚屋という選択は自然なことだった。
戦後間もない当時、糸満漁港に向かうバスは、夫を戦争で亡くし単身で生計を立てないといけない女性たちであふれていた。長嶺さんもバスで漁港に向かい、午前3時の漁船の帰港を迎え入れた。那覇の開南バス停で降り、魚を入れた大きなたらいを担いで市場まで運ぶ。魚は飛ぶように売れ、1時間足らずで完売した。「氷は元々少なかったけど冷やす間もなかったね」
市場は大雨のたびに浸水した。衛生面を指摘され、建て替えや第二市場移転の話が浮上した。長嶺さんは第二市場への移転は「客が来ない」と猛反発。那覇市へ現在地に建て替えるよう求め、市議会や平良良松市長(当時)の自宅にも足を運んで訴えた。市は72年に現在の第一市場を建てた。「闘って勝ち取ってきた市場なんだよ。ここは」。振り返る言葉に熱がこもる。
第一市場開設後も困難はあった。泊漁港敷地内で小売店も備えた「泊いゆまち」を開設する計画が出た際には「仲卸は泊、小売りは牧志とすみ分けるべきだ」として反対した。魚が売れず、隣の店の店主らといすを並べて腰掛け、客を待つ日々もあった。
今は長嶺さんが4~5人の従業員を束ねる。中国人観光客もひっきりなしで、中国人の従業員も2人いる。世代も客層も変わるが、やんばるからの常連客が今も通う。店は現市場での営業を6月16日で終え、仮設市場、新市場へと移る。「人情でここまでこられた。新しいところは不安だけど、人と触れ合いがある市場を守って、残したい」
長嶺鮮魚店前の通りはいつしか「美人通り」と呼ばれるようになった。「長嶺さんがいるから?」。そう問われた長嶺さんはふふっと笑った。おちゃめな笑顔の“看板娘”がそこにいた。
(田吹遥子)
(琉球新報 2019年3月26日掲載)