サンフランシスコ講和条約が発効し、28日で67年。条約の発効によって沖縄は日本から切り離され、1972年の日本復帰まで、長く米統治下に置かれることとなった。沖縄にとって4月28日は「屈辱の日」として深く刻まれている。
この条約発効で日本は戦後の占領統治から独立の回復を果たした。2013年4月28日には、安倍政権が主催し「主権回復の日」式典が開かれた。式典には首相、衆参両議長、最高裁長官の三権の長とともに天皇皇后両陛下も臨席された。
サンフランシスコ講和条約を巡り、昭和天皇が米軍による沖縄の長期占領を望むと米側に伝えた47年の「天皇メッセージ」が沖縄の米統治につながるきっかけになったとも言われる。
昭和天皇の「戦争責任」と講和条約による「戦後責任」を感じている県民の間には、皇室に対して複雑な感情もある。一方、平成の天皇陛下は皇太子時代を含めて11回沖縄を訪問し人々に寄り添われた。
「平成」が終わり「令和」が始まる。新たな時代で沖縄の人々の皇室に対する思いはどこへ向かうのか。4月28日を巡る式典は平成の時代で、沖縄と皇室の在り方をあらためて問い掛ける出来事となった。
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「天皇陛下、バンザーイ」「バンザーイ」
2013年4月28日、東京都の憲政記念館で開かれた政府主催の「主権回復の日」式典。天皇皇后両陛下が退席される中、会場前方から突然、掛け声が上がった。つられるように、万歳三唱は会場中にこだまし、広がった。
1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約によって、日本が戦後の占領統治下から主権を回復した日を記念し、政権が初めて開いた式典。安倍晋三首相は「日本の独立を認識する節目の日だ」と意義を強調していた。
だが、講和条約締結を巡っては昭和天皇による「天皇メッセージ」が沖縄の米統治に大きな影響を与えたといわれる。沖縄戦で悲惨な戦禍を受け、その後も日本から切り離された沖縄にとって、皇室への複雑な感情は今もくすぶっている。
こうした中で開かれた式典に、県内の反発は激しかった。一部の与党国会議員からも異論の声が上がった。「主権回復の日」式典と同日・同時刻に政府式典に抗議する「『屈辱の日』沖縄大会」が宜野湾市内で開かれ、県民は結集し怒りの拳を上げた。「万歳」と「拳」。本土と沖縄の温度差が際だっていた。
◆再び切り捨て
「がってぃんならん(合点がいかない)」
「屈辱の日」沖縄大会は「主権回復の日」式典に抗議し「県民の心を踏みにじり、再び沖縄切り捨てを行うもので到底許されるものではない」とする決議と大会スローガンを採択した。
毎日新聞の報道によると式典への出席を求める政府側の事前説明に対し天皇陛下は「その当時、沖縄の主権はまだ回復されていません」と指摘されていたという。「万歳三唱」によって政治色が極めて強くなった式典は、陛下の沖縄に対する思いとはかけ離れたものだった。
◆県政は苦慮
政府が式典開催を公にした直後、仲井真弘多知事(当時)は「全く理解不能」と強い不快感を示した。県議会も抗議決議を可決。批判は全県に広がった。
だが、沖縄の声は届くことはなく、政府は式典開催を決定し、知事の出欠に注目が集まった。
元県幹部は式典について「寝耳に水だった」と振り返る。複雑な県民感情を踏まえ「知事が参加することに意義があるのかを慎重に検討した」という。当時の県政は副知事による代理出席という判断をした。
式典開催から今年で6年。知事の名代で出席した高良倉吉副知事(当時)は「やっぱり歴史的な背景から、沖縄からすると『主権回復だ』とお祝いする日ではない。沖縄、奄美、小笠原は返還されていなかったのだから」と当時の複雑な感情を吐露した。(池田哲平)