「基地」か「経済」か 常に判断迫られる 平成の沖縄6知事 日本政府との向き合い方に苦悩 〈平成の県政 上〉


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 平成(1989~2019年)の時代、6人の沖縄県知事が県政の課題解決に向き合った。昭和の時代に沖縄がたどった沖縄戦、米軍統治、日本復帰を経て、平成は「自立と発展」が主要課題になったが、過剰に集中する米軍基地が発展を妨げていることが明白になった時代だった。「基地と経済」という二項対立の中で、知事は常に日米両政府に向き合う宿命を背負った。観光や経済でさらなる飛躍が期待される沖縄の足固めにも奔走した知事の足跡を振り返る。

◆西銘順治知事 基地問題解決で米に初の直談判

 「ヤマトンチュになろうと思ってもなりきれないというウチナーンチュとしての特色がある」。沖縄県民の心の機微をそう表現した西銘順治知事(1978年12月13日~90年12月9日)は、沖縄県知事として初めて米軍基地の過剰負担の解決を訴えるため85年に訪米した。地方自治体の知事による“外交”は異例で、後続の県知事の訪米に先鞭(せんべん)をつけた。第2次沖縄振興開発計画(82~91年度)の策定を政府に働き掛けたほか、県立芸術大学の創設などに奔走した。90年に第1回が開催された「世界のウチナーンチュ大会」を実現させ、海外のウチナーンチュが一堂に会す機会をつくった。

◆大田昌秀知事 普天間飛行場の返還合意引き出す

 琉大教授から転身した大田昌秀知事(90年12月10日~98年12月9日)は沖縄戦に鉄血勤皇隊として招集された経験から、糸満市摩文仁に「平和の礎」を建立するなど一貫して平和行政に尽力した。段階的に米軍基地を全面返還させるとした「基地返還アクションプログラム」をまとめ、国に提案。米軍普天間飛行場の危険性を訴え、96年の日米両政府の返還合意を引き出した。国際都市形成構想の理念は現在の沖縄振興計画「沖縄21世紀ビジョン計画」に引き継がれている。

◆稲嶺恵一知事 モノレール開業など経済振興に足跡

 稲嶺恵一知事(98年12月10日~2006年12月9日)は、経済界で要職を歴任してきた手腕を生かし、九州・沖縄サミットの開催(00年)や沖縄科学技術大学院大学の構想着手、沖縄都市モノレールの開業(03年)など沖縄振興に足跡を残した。一方、基地問題では米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設受け入れを表明したものの、在日米軍再編では代替施設の15年使用期限など県の意向が反映されずに世論の反発を招いた。普天間移設問題を巡り、任期終盤は政府との対立が鮮明になった。

◆仲井真弘多知事 一括交付金実現も辺野古埋め立てを承認

 大田県政で副知事を務めた元通産官僚の仲井真弘多知事(06年12月10日~14年12月9日)は経済振興に力を入れた。07年に国際物流拠点として那覇空港の国際物流拠点化に全日空と合意したほか、12年に自由度が高い沖縄振興一括交付金の創設を実現させるなど、沖縄振興に成果を出した。一方、基地問題を巡っては「普天間の県外、国外移設」を2期目の公約に掲げながら13年に辺野古の埋め立てを承認し、政府が辺野古埋め立て工事を進める根拠をつくった。

◆翁長雄志知事 辺野古移設阻止で日米政府と対峙

 「イデオロギーよりアイデンティティー」と県民に団結を呼び掛け、辺野古移設阻止を訴えた翁長雄志知事(14年12月10日~18年8月8日)は、スイスの国連人権理事会で米軍基地が集中する沖縄の現状を説明したほか、4回訪米して米政府関係者らに面会するなどして辺野古新基地建設中止を訴えた。任期中の18年8月に膵臓(すいぞう)がんで死去したが、子どもの未来県民会議を設立して30億円の基金を活用した事業を展開するなど子どもの貧困対策にも尽力した。

◆玉城デニー知事 埋め立て賛否の県民投票実現へ奔走

 現職の玉城デニー知事(18年10月4日~)は今年2月に実施された辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票に向け、広報活動のほか、全県実施に向け調整した。投票者の7割が反対の意思を示した辺野古埋め立て工事を進める政府に対して、一貫して対話による解決を呼び掛ける。3月には「日米特別行動委員会(SACO、サコ)」に沖縄を加えた「SACWO(サコワ)」の設置を要求したが、実現の見通しは立っていない。


 平成の県知事について、琉球大学名誉教授の比屋根照夫氏は「日本政府とどう向き合うかということが常に問われた。基地か経済かという二項対立の中で判断を迫られてきた。究極的には永遠に混じり合わない二極の構造の中で、県政が引き裂かれるような局面もあった」と論評。その上で「『沖縄のことは沖縄が決める』という自己決定権の実現がこれからも引き続き県政の課題になるだろう」と指摘した。(松堂秀樹)