prime

沖縄戦生き残り、市場へ 夜明けに開く果物店64年 孫が跡継ぎ〈まちぐゎーあちねー物語 変わる公設市場〉8ベテラン(下)上原信吉さん


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
早朝の開店準備が日課になっている上原信吉さん。空き箱や角材で高さを出し、果物をきれいに並べるのはまさにプロの技=3月27日、那覇市松尾の第一牧志公設市場

 まだ夜が明けない午前5時半の市場中央通り。人影もまばらな薄暗いアーケード街で光が漏れる店が1軒だけある。それは、第一牧志公設市場の外小間の「上原果物店」。ラジオから流れる歌謡曲を聞きながら、上原信吉さん(86)がせっせとリンゴを並べていた。公設市場で働くようになり、64年になる。

 上原さんは那覇市小禄出身。13歳で沖縄戦を経験した。弾が飛び交う中を小禄から南へ逃げ、現在の糸満市伊原付近で捕らわれた。終戦後は、那覇市垣花の米軍基地内で「テーブルボーイ」として働いた。

 牧志公設市場で働き始めたのは22歳の頃。1950年代後半でまだトタン屋根の市場だった。その頃は叔父と一緒に肉屋を開いたが、数年後に叔父が「稼ぎがいい」とブラジルに移民。妻のヒロコさん(90)が市場で営んでいた果物店を手伝うようになった。「かつお節や昆布も置いたよ。軍の払い下げのネーブルオレンジもたくさん出ていたね」

 69年の火事は今も覚えている。火事が起こらないよう店を監視していたが、人がいない時に火災が発生した。第二市場に移転するか、第一市場に残るかで市場内も割れていた時期。上原さんは移転に反対し開南の仮設市場を経て72年に新設された第一市場で再び営業を始めた。

丁寧に、淡々と開店準備を進める上原信吉さん。道行く人に「おはよう」のあいさつも欠かさない

かつては地元客に果物や乾物がよく売れた。観光客が増え、マンゴーやパインなどの贈答品も多く扱うようになった。最近は海外からの観光客にリンゴやイチゴなどが人気だという。

 10年前に後継ぎができた。孫の隼人さん(33)だ。午前5時に信吉さんが開店準備をして8時に隼人さんに引き継いで家に帰り、妻のヒロコさんを市場に送る。ヒロコさんは店の奥に座り、ラッキョウの皮むきをする。「家内は足が悪いから行かないでいいよって言うんだけど『来ないといけん』って。長くやってるから市場にすっかり“焼き付いて”いるね」

 店は現市場の営業終了とともに6月16日で営業を終え、仮設市場、新市場へと移転する。信吉さんは「そろそろ休みたいな」と思っているが、子育て中の孫を思って続ける。「4人の子どもがいるから大変さ。だからもう少し頑張らないと」。そう話しているうちに午前7時半。アーケードの向こうに青空が見える。上原さんは箱に上って「公設市場入口」と書いた看板を提げた。今日も準備完了だ。
 (田吹遥子)

(琉球新報 2019年4月2日掲載)