昭和の終わりの4年間、東京の沖縄県人学生寮「南灯寮」で暮らした。平成に代替わりしたころ、官僚試験突破を目指す東大生など10人余の学生サークルと交流する機会があった。官僚になったら、実現したいという沖縄振興策を立案していた彼らから「沖縄のことを学びたい」と招かれた席で、持論を浴びせられた。
「沖縄は米軍基地を受け入れるべきだ。賛否が割れているから駄目だ」「全国平均の倍の失業率は永遠に改善できるはずがない」「基地の代償として振興予算を引き出し続け、生活すればよい」「自立意識が弱すぎる」
“上から目線”で繰り出すヤマトの学生の決め付け調の「沖縄論」に反論したが、こちらの論拠の乏しさと心に巣くっていた「劣等感」も災いして議論は全くかみ合わず、悔しさが募った。
私が入社した平成元(1989)年の沖縄への観光入域客は267万人だったが、30年を経た2018年度の数値は1千万人まであと千人に迫った。外国人観光客だけで300万人を突破する時代を誰が予測しただろうか。2月には県内の完全失業率(2・0%)が全国平均を初めて下回った。
第3次産業の比率の高さや県外資本への利益流出など課題は多いものの、沖縄の基地依存経済からの脱却の足取りは加速度的である。隔世の感を覚える県民は多いだろう。
平成の30年4カ月を振り返ると、基地問題、政治、経済、文化、社会のどの分野でも沖縄社会は大きな変化を遂げた。沖縄戦で焼け落ちた首里城が復元(92年)し、国籍を超えて戦没者を刻銘する、類例なき鎮魂碑「平和の礎」が建立(95年)されて不戦を誓うシンボルとなった。
安室奈美恵さんら県出身アーティストの大活躍、高校野球の沖縄尚学、興南の両校の4度にわたる全国制覇など、本土と異なる独自の歴史と文化、沖縄の底力が内外で高く評価され、多くの県民がウチナーンチュとしてのアイデンティティーに誇りと自信を強めた。ヤマトへの「劣等感」は大きく払拭(ふっしょく)されつつある。
その一方、95年の米兵少女乱暴事件に象徴される過重な基地負担は、県民の尊厳を傷つける古くて新しいとげとして、沖縄社会に突き刺さり続けている。辺野古新基地建設を巡り、大多数の国民が見て見ぬふりをする「人ごとの論理」が、沖縄の民意を一顧だにせず、屈従を強いる日本政府を下支えしている。
本土との心の距離が広がる中、「国内で沖縄は公平に扱わなくてもいい存在にされ、本土の犠牲になることを拒む『自己決定権』の確立を求める県民意識が強まった」(比屋根照夫琉球大学名誉教授)という指摘は的を射ている。沖縄に日米安保の負担を集中させる「構造的差別」は深まり、治癒が見通せない片頭痛の病因と化して久しい。
新しい「令和」の世は、沖縄の主体性と創意に彩られた豊かで平和な時代を紡ぎたい。そのためには、深刻な子どもの貧困などの内なる課題にも真摯(しんし)に向き合わねばならない。他者の痛みを受け止めて行動する「肝苦(ちむぐ)りさ」の心を広く共有したいものだ。
「まつろわぬ民」という言葉がある。大和朝廷への理不尽な服従を拒んだ蝦夷が語源だが、今の沖縄にも通じる。
試練が続く沖縄には、この国の民主主義が生きているか否かを映し出す鏡の役割も課せられている。まつろわぬ心で民の声を反映させ、沖縄社会に横たわる不条理と片頭痛克服に挑む担い手は、主権者たる県民一人一人である。