平成から令和へ「真のオール沖縄で国は動く」稲嶺恵一元沖縄県知事インタビュー 普天間基地辺野古沖合移設を「苦渋の選択」で受け入れ


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平成の沖縄県政を振り返る稲嶺恵一元知事=4月29日夕、那覇市泉崎の琉球新報社

 沖縄県経営者協会会長を経て1998(平成10)年から2期8年にわたり県知事を務めるなど、激動の平成の県内政治・経済に携わった稲嶺恵一氏。知事時代は政府との協調路線で沖縄サミット開催をはじめ振興策を導き、米軍普天間飛行場の返還問題では15年使用期限や軍民共用などの条件を付けた「苦渋の選択」で辺野古沖合への県内移設を受け入れた。だが、政府は2006年に稲嶺氏の条件をくんだ沖合案の閣議決定を覆すと、V字形滑走路を持つ沿岸案の決定を強行。基地問題のかじ取りの難しさに直面した。新時代「令和」を迎えるに当たり話を聞いた。

 米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設問題を含め、沖縄が抱える基地問題は非常に難しい。

 大田昌秀元知事は「米軍基地の全面返還が望ましいが、固執すれば結果として物事が解決しないことがあり得る。その辺を頭に置きながら私たちは一歩一歩進めていく必要がある」と語っていたが、その考え方というのは今も変わらない。

 普天間問題は(日米政府の)善意でスタートした。善意を受けて大田氏も当時の橋本龍太郎首相が言う普天間飛行場返還に向けて取り組んだ。しかし、その後、政府側と沖縄側に食い違いが生まれた。その食い違いは時代を追うごとに大きくなり、私が知事時代に求めた15年使用期限も結局は守られなかった。

 普天間問題に対する県民世論は、2009年に誕生した民主党政権で当時の鳩山由紀夫首相が「最低でも県外」と表明したことで変わった。沖縄はそれまで「苦渋の決断」だった。それが鳩山政権により、県民は苦渋の決断をしなくてもいいとの思いに至った。

 だが、翁長県政から玉城県政に変わり、国と県との対立が深刻となっているのは非常に好ましくない状況だ。とりわけ経済の視点で言うと、経済は5年、10年、20年先を見据えないといけない。今、種をまかないと沖縄は将来、必ず苦境に陥る。今どのような種をまくかが重要だ。

 私はかつて、橋本首相が大田氏の本音を探るために沖縄に派遣した諸井虔氏(元太平洋セメント相談役)に「沖縄側がどんなに要望しても、国民の60%以上の賛意を得ないものは進まない」と言われた。つまり国民のコンセンサス(合意)をどのように得るかが重要で、コンセンサスを得るため県民が一体となって取り組む必要がある。

 国と県の意見の相違はあってしかるべきだ。しかし、絶対的な対立は避けるべきで、オール・オア・ナッシングであってはいけない。辺野古移設に反対だけ主張しても国民のコンセンサスは得られない。

 県民が真の「オール沖縄」となった時に初めて国は動く。県民が本当の意味でオール沖縄でまとまったのは1995年の県民大会だった。沖縄がまとまったことで96年のSACO最終報告につながった。なぜ県民大会が実現したか。それは県民のコンセンサスを得るぎりぎりの線を模索したからだ。国民のコンセンサスを得るにはどうするか。沖縄として考え直す時期にきている。
 (聞き手・吉田健一)