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なぜ遺骨を掘り続けるのか 具志堅隆松さん(遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表) 〈ゆくい語り・沖縄へのメッセージ〉11


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具志堅隆松さん

 まだ梅雨の明けぬ6月の糸満。ぬかるみをものともせず、小柄な背中が小高い丘をすいすい登っていく。紛れもなく、道なき道を進んできた人の背中だ。

 丘の中腹に目的の場所はあった。遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さん(64)が今、掘り出している遺骨が眠る場所だ。岩の裂け目に潜って土を少しずつ掃き、骨の破片を一つ一つ丁寧に掘り出す。

 自営業の傍ら、週末をほぼこのように過ごす。名誉とも金銭とも無縁のこうした行いを、30年余も続けてきた。活動が知られるようになったのは最近のことにすぎない。長年、何の称賛も受けずに黙々と独りで掘ってきた。ただ良心の命ずるままに。支えてきたのは、家族の元に帰りたい遺骨がこのままでいいのか、という思いだけだ。

 「集団自決」(強制集団死)の跡とみられる例も数多く見た。死を強いられた者の無念をわがことと受け止めるからこそ、湧き出る思いがある。「国が自殺を命じたのは間違いだと、国との間で確認しておきたい」。理不尽への静かな憤りが、言葉の端々に宿る。

戦争で殺された人 家族の元へ帰したい

―初の遺骨収集は28歳と聞く。

 「当時ボーイスカウトの成人リーダーをしており、県外の遺骨収集団から協力要請が来た。岩陰で土を掘ると人骨が次から次に出てきた。翌年も案内があり、だいぶ悩んだ。だが本土から来たおばあさんが雨がっぱをかぶり、わが子の遺骨を探しに山へ入る姿が目に浮かび、参加することにした。誘いを待たずに自分で探し始めたのは3~4年過ぎ、遺骨の風化が進んでいると知ってからだ。戦争で殺された人を家族の元へ帰してあげたい、と思うようになった」

―2008年に那覇市真嘉比で市民による遺骨収集をした。市民参加型の収集は具志堅さんが最初です。

 「多くの遺骨があった那覇新都心で開発が始まり、1991年に市へ収骨を訴えたが受け止めてもらえなかった。だから開発が真嘉比に及んできた時、今度こそ開発を止めてでも遺骨収集しようと決心した。市に掛け合って許されたが、これだけ広いと一人では間に合わない。考えた末、市民に呼び掛けることにした」

沖縄戦戦没者の遺骨収集作業現場で語る具志堅隆松さん=16日、糸満市内の自然壕

―市民参加型にしたのは、業者の収集方法に衝撃を受けたからとも。

 「業者の方法はショベルカーで大量の土を掘り、それをベルトコンベヤーに載せて遺骨を探すやり方だ。これでは名前が刻まれた遺品があっても、どの遺骨のものか分からず、遺骨を遺族へ帰せない。われわれがやったのは一体一体動かさず、丁寧に土を取り除き、何を持っていたのか、全部記録しながらの作業だった」

 「真嘉比でも172体出て、名前のある遺品と一緒だったのは1体だけだった。万年筆に『朽方精』とあった。平和の礎で『朽方精』の名を見つけた時には小躍りして喜んだ」

―真嘉比は平和学習の場にもした。

 「子どもたちには『自分の目で確認したから、あなたたちは、真嘉比は戦場だったそうだ、でなく、真嘉比は戦場だった、と言える』と話した」

 「昨年チビチリガマを壊した子どもたちに何が足りなかったというと、遺骨には手を合わせている家族がいる、この場所を悲しむ人がいる、という実感だったと思う。遺骨を『見るものじゃない』と教えてきたわれわれ大人は、戦争の惨状を『見えないもの』にしてきたのではないか」

強者の論理が通る 軍民混在の戦場

―米兵の遺骨は見つからない。

 「米軍には戦没者を家族の元に返す伝統がある。だから必ず遺体や遺骨を収容しようとした。その結果だろう。そういう感覚はむしろ日本人の方があると思っていたが違った」

―沖縄の住民と日本兵の状態も対照的だと聞く。

 「南部の収集現場では、艦砲弾が当たってもびくともしないような頑丈な岩の下から出てくるのは全て日本兵だ。対照的に住民の骨は、体一つ入るか入らないかの小さな岩陰から見つかる。それも親子だったりすると哀れだ。強者の論理が押し通されるのが軍民混在の戦場の実相だ」

収集作業で遺骨が見つかった朽方精さんの遺族に対し、発見時の状況を説明する具志堅隆松さん(右端)=2012年6月21日、那覇市真嘉比

―遺骨のDNA鑑定を提唱する。

 「国は『高温多湿の南方ではDNAは十分抽出できない』と言ってきたが、朽方さんの例でDNAが取れ、沖縄でも鑑定できると証明できた。だから全ての遺骨でDNA鑑定を、と国に要請した。県に対しては(焼骨するとDNA抽出が困難になるから)火葬をやめてくれと要請した」

 「国は当初、『名前のある遺品が一緒なら』と言い、次いで『歯のある遺骨は鑑定する』となったが、欧米では四肢骨も鑑定に用いる。訴え続けた結果、四肢骨も対象となった」

 「もう一つ要請しているのは各地の慰霊塔にある遺骨の鑑定だ。焼骨されておらず、DNA鑑定が可能なものもあるはず。だから鑑定の対象にしてほしいと国に要請した」

 「今、11の大学に分散発注しているが、予算も人員も足りず、なかなか進まない。専用施設を国が沖縄に造ってはどうか。そこで南洋など国外の遺骨も扱ったらいい」

 「フィリピンの博物館には千~2千体の遺骨があり、フィリピン人の骨も混ざっているという理由で留め置かれている。だが安定同位体元素を調べれば、戦前の人だと出身地が分かるという。それを用いればウチナーンチュは沖縄に収骨でき、DNA鑑定で遺族の元に返せる」

辺野古新基地は死者への冒涜

―今、訴えたいことは。

 「沖縄戦で『ウチナーンチュの中にスパイがいる』と言われたことが間違いだったということ。日本軍の疑心暗鬼が生んだ話だが、体験者がいなくなるとフェイクニュースが独り歩きしかねない。国にきちんと研究させて確定しておきたい。もう一つは『自決』の問題だ。沖縄戦では手りゅう弾を2個渡され、降伏という選択肢を与えられなかった。軍隊での教育の結果だ。『国が自殺を命令していた。それは誤りでした』と、正式に国との間で確認したい」

 「辺野古には大浦崎収容所があって、少なくとも302人が亡くなった。戦後一度も調査されず、遺体は埋まったままだ。家族の元に帰すべきだ。逃げることもできず、食料も少なくて衰弱して死んだ。いわば米軍による虐待死だ。そこに新たな戦死者を生む施設を造るというのは、死者への冒涜(ぼうとく)以外の何物でもない」

聞き手 編集局長・普久原均

ぐしけん・たかまつ

 1954年2月26日、那覇市生まれ。沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表。自営業の傍ら30年余もガマや激戦地での遺骨収集を続ける。2007年に「ガマフヤー」を設立。08年には那覇市真嘉比の開発地で市民による遺骨収集を初めて実施、09年にはホームレスなどを雇用した遺骨収集事業を手掛けた。11年度に吉川英治文化賞を受賞した。

取材を終えて 思索が生んだ市井の哲人

編集局長・普久原均

 具志堅さんの遺骨収集に同行した。ぬかるみの中、掘り出した遺骨を慈しむように見つめる。そのまなざしは肉親のよう、否、あの世から現世の自分を眺めているかのようだ。長年、野ざらしになった遺骨は哀れだが、それでも具志堅さんに掘り出された人は幸いに思える。無念の思いに共感してもらえるのだから。

 遺骨を見つける瞬間を「戦死の姿に会う」と表現した。「自分が殺されるのを認めるのは間違っている、自分で自分を殺すことは間違っている」とも話す。

 独りで入る壕の中は「ウソも冗談も通用しないところ」で、「自分は何のためにここにいるのか」と自然に自問自答したのだという。紡ぎだす言葉が示唆に富むのも長年、ガマの中で自問した思索の結果なのだろう。市井の哲人と呼ぶにふさわしい。

(琉球新報 2018年7月2日掲載)