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奇跡の再生 挑戦が生む 仲村巌さん(元日産ディーゼル工業社長) 〈ゆくい語り・沖縄へのメッセージ〉13


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仲村 巌さん

 日産ディーゼル工業元社長の仲村巌さん(76)の通称はロッキーだ。米国のビジネススクールに留学していた頃ヒットしていた映画が「ロッキー」で、名前の「巌」の直訳がそれということもある。だがその名が不思議としっくりくるのは、そんな単純な理由だけではなさそうだ。

 過酷な境遇から不屈の精神で這(は)い上がり、誰もが驚く好勝負を繰り広げる。そんな映画の展開が仲村さんの歩みと一致する。親会社も見放そうとした破綻一歩手前の会社が、指導者・仲村さんの強靱(きょうじん)な意思で奇跡の成長を遂げた。前例にとらわれない果敢な挑戦が生んだ奇跡だ。その過程の話には強く引き込まれる。

志と信念 実行させるのが真のリーダー

―中学生で東京へ。いきさつは。

 「家の近所に繁華街があり、薄暗い所に街娼が立つような場所だった。学校から帰るとすぐ映画館へ行き、夜になってまたこっそり家を抜け出し遊び出す。近所の子供を子分にして連れ歩き、くず鉄を拾わせては金に換え、配分するようなこともしていた。母親は『こんな環境で好き勝手していると、とんでもない不良になるのでは』とひそかに悩んでいたらしい。中2の冬休みに母の友人を頼って東京へ引っ越した」

 「驚いたのは、那覇中学の実力テストでは毎回全校上位にいたのに、(転校先の)雪谷中学では全校中位以下に転落したことだった。東京はみんな勉強していると気付かされ、勉強しだした。次第に席次が上がり、だんだん勉強が面白くなった」

―お母さんの狙いが当たった。

 「まさに『お釈迦様の掌(てのひら)の上』だった。中3の最後の模試で全校1番になり、先生から『日比谷(高校)へ行きなさい』と言われた」

―日比谷高校から東大工学部へ進学した。もの作りが好きだからか。

 「小学生の時、当時の最高級ラジオを組み立てたり、自転車を自分で分解したり、組み立てたりしていた。自分の特性を考えたのでしょう」

“技術ばか”から脱却 有志と日産の風土改革

―日産自動車へ入社した。

 「今後成長し、面白そうなのはどこかと考えた。心情的には飛行機をやりたかったが、飛行機は日本ではろくなものを造っておらず、自動車なら世界でも勝てると考えた」

―入社後は設計一筋で、駆動設計部長にまでなった。

 「部長になる頃には(日産の車が)なかなか売れなくなり、(トヨタに)差をつけられ始めていた。技術では勝っているのに何で売れないんだろうと検討した結果、僕らは技術ばかになっていたと分かった。技術ばかは技術の高い車を造ったり、レースで早く走ると満足する。車を選ぶのは女性という時代になっていたのに気付いていなかった。奥さんがあの色にしようとか、マニュアルは困る、オートマチックにしようということで決めていたのだ。そこで志ある連中で風土改革を始めた。始めると熱中した。マーケットインの実践として若い連中を集めて『街に出てみよう』とか。そんな勉強グループのリーダーになった」

技術本部長時代、日産ダットサンの初期型を復刻した車に試乗する仲村巖さん=1995年ごろ、神奈川県厚木市の日産テクニカルセンター

 「戦略やマーケティングの立て直しをしたところで、(上司が)あいつはマネジメントに向いているんじゃないかと考えたようだ。僕は論文も数多く書いて社長賞もたくさんもらった優秀なエンジニアなんだけどね(笑)。設計エンジニアから経営企画室長になったのは僕が初めてだけど、その前にハーバード大学のAMPという4、5カ月のビジネススクールに派遣された。経営の才能があるのではと誤解されたらしい(笑)」

―その後、経営企画室長になった。

 「日産が危なくなった時期だ。バブルがはじけた1992年あたり。当時、会社は4兆円の大借金をしていたが、国内の工場を閉じないといけないのに九州工場を造るなどめちゃくちゃだった。円高を乗り切るには海外を主力にする必要があり、座間工場などを閉鎖する必要がある。調達構造も変えなければいけない。車の売り方もマーケティング型に変える必要がある。そんな変革期の企画室長は面白かったが、的確な計画を造ってもしがらみが多くて(経営陣が)実行できない。『この工場閉鎖は自分がやるけど他は次の人に任せたい』と逃げる社長を追い詰めるので、部下から『仲村さん強いですね』と言われた。本当のリーダーは志と信念と実行させるリーダーシップを持たないといけない、と勉強になった」

 「技術本部長に転じ、しばらくして第2の危機が来た。(社長に就任した)カルロス・ゴーンさんの『リバイバルプラン』は僕が企画室長時代に作った計画を基にしていると信じている」

―日産ディーゼル工業社長になる。

 「日デ(日産ディーゼル工業)はゴーンさんが見捨てた会社だった。日産が支援すると日産の株が下がる。だから表向きはできないとね。そんな会社かわいそうじゃないですか。だから手を挙げた。企画室長を務めていたからこれしかないという再建方法が分かっていた」

―1人の首も切らずに立て直した。

 「鍵になったのは掛け売り(高価なトラックを売るために顧客に購入資金を融資する自社割賦制度)をやめさせたこと。掛け売りをやめたら売れないと営業の責任者は言う。だが金のない会社がすることではない」

―財務は劇的に改善した。

 「次に『久遠(くおん)』という新長期排ガス規制をクリアする車を業界で初めて投入した。見通しにどのくらい自信を持てるかが鍵で、それが突破力の原点だ。それがリーダーシップにつながり、反対する所属長を説得し、小さな成功をサイクルに乗せていく。アクション(行動)の際にはそういう細かさが大切だ」

沖縄の若者の才能 開花後押ししたい

私財で創設したロッキーチャレンジ賞について語る仲村巌さん=8月17日、那覇市内

―2010年に自費でロッキーチャレンジ賞を創設した。高い志を持ち、挑戦する沖縄の若者に毎年100万円を贈っている。なぜ創設したのか。

 「本土の競争社会の真ん中にいて、すごく忙しく楽しく一生懸命仕事させてもらった。定年になって社長を辞める時、退職金を老人が持っていても不活性な資金になってしまう。将来性のある若い人材の育成に使おうと考えた」

 「(沖縄の若者が育つ仕組みは)スポーツや芸能の分野にはある。例えば野球は、高校野球連盟の努力もあって対外試合を増やし、指導者も出た。音楽でもアクターズスクールなどがある。だが実業や教育界にはない。また沖縄には島の中に才能を引き留める文化がある。すぐ帰ってきなさいよ、とか。そういうところから解き放つ、潜在能力の開花を後押しする仕組みをつくらないといけない」

 「沖縄が持つ見えない才能を高いレベルで開花させるには、突出しかかっている人を認知させるのが一番いい。可能性のある人を集中的に応援し、したいことをさせる。では退職金を30年分割して上手に増やして基金にし、100万円を贈呈しよう。女房に相談したら快く同意してくれた」

―これまでの受賞者がすごい。

 「選考委員に志ある人を選んでいる。次第に認知されてきた。他薦主義であるがまさに選考委員の志のたまものであると思う」

聞き手 編集局長・普久原均

なかむら・いわお

 1942年7月28日、那覇市生まれ。東大卒。66年日産自動車入社。経営企画室長、執行役員常務等を経て2002年、日産ディーゼル工業社長に就任。業界慣例の割賦販売方式をやめて財務を劇的に改善。他社に先駆けて新長期排ガス規制をクリアする新機種を発売、シェアを業界最下位から2位へと引き上げ、経営手腕を高く評価された。自ら定年を定め、07年に退任した。

取材を終えて 孟母三遷が生んだ成長

編集局長・普久原均

 戦後那覇の焼け跡の猥雑な繁華街に育ち、小学生ながら子分を引き連れ夜の街を徘徊(はいかい)した少年が、長じて東大に入り、従業員3300人を擁する一部上場企業の社長になった。半ば伝説のような仲村さんの成長の裏には、子にふさわしい環境を用意しようとするご母堂の計らいがあった。孟母三遷(もうぼさんせん)を地で行くようだ。環境が人をつくる。そんな見本のような半生である。

 仲村さんの半生の魅力はそれだけではない。破綻寸前の大企業を強い意思で再生させた。出身地沖縄の若い人材を高く引き上げようと私財をなげうつ。歩みの一つ一つに大きな起伏があり、示唆に富む。沖縄がこんな方を生み出したことを誇りたくなった。

(琉球新報 2018年9月3日掲載)