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現場、地域にこだわり 比嘉明男さん(日本郵便沖縄支社長) 〈ゆくい語り・沖縄へのメッセージ〉14


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比嘉明男さん

 国頭村の海岸線を21年間、バイクで走っていた郵便配達員が、ことし日本郵便沖縄支社長に就任し、社員約3700人を率いている。比嘉明男さん(65)。2007年に郵政公社が民営化されてから、県出身者として初の支社長になった。自ら「たたき上げ」と称する、現場から昇ったリーダーだ。仕事の傍ら、小中学生にソフトテニスを教え、PTA会長を務めた。今も地元国頭村安田でヤンバルクイナの保護活動に取り組み、県パークゴルフ協会連合会長として地域おこしを図る。その姿から地域へのこだわりが見えてくる。

地方創生の一翼担うのが郵便局

―社会人生活のスタートは郵便配達だったそうですね。

 辺土名高校を卒業して大学へ進学したかったが、母子家庭で農家だったので、1年は学費を稼ぐために那覇でアルバイトをしました。朝4時に農連市場で食材を仕入れて学校の給食室などに配送し、午後からは本土新聞の配達。夜は予備校に行って睡眠は3時間くらい。沖大の夜間に入りました。3年次の時に地元の国頭郵便局で郵便外務に採用された。だから沖大は中退です。

 郵便配達は21年続けました。国頭村の浜から辺戸まで2千世帯ほどが担当で、名前を聞けば今でも住所が言えますよ。バイクで配達するんですが、冬の雨の日はきつかったですね。海風が吹き付けて寒くてね。当時から高齢化で家にはおじいちゃんおばあちゃんがいて、必ず「休んでいきなさい」と言うんです。昔から沖縄の人は1杯茶は駄目と言うでしょ。慌ただしいから。お茶を2杯飲みながら相談とか愚痴とか聞いてね。帰りは野菜を持たされて。いい時代ですよ。

郵政大学校転機に 配達員から内務へ

―郵便配達の方はほとんどが定年まで配達の仕事に就く。しかし比嘉さんは内務に転換して今に至りますね。転機はなんですか。

 「40歳を過ぎて将来を考えた時、配達は体力的にもきつくてね。東京の郵政大学校という養成大学へ行ったことが転機になりました。全国から40人が集められ、3カ月の厳しい集中研修で朝から晩まで勉強した。管理者候補なんですよね。卒業した時は、みな泣きました」

―地域ボランティアも熱心だったそうですね。

 「当時の国頭郵便局長が地域活動を勧めてくれたので、採用当初から小中高校でソフトテニスを指導しました。子どもたちと接して学んだことが今、生かされている。若い頃は子どもを自分の持つ型にはめようとしたが、その子に合った指導をしないと伸びないと気づいた。レベルの高い子に合わせるとチームに不協和音が出る。それぞれに合った指導で全体を伸ばしていく。安田小は九州大会優勝も果たした。練習が終わったら校長や教員がつまみを作って毎日酒盛りですよ。そういうお付き合いをして、安田小中学校のPTA会長もやった」

奥郵便局長時代の比嘉明男さん(左)。地域活動に取り組んでいた=1999年ごろ

―比嘉さんが国頭郵便局長となった翌年、郵政民営化が争点となったいわゆる郵政選挙があり、郵便局の姿は大きく変わった。

 「地方切り捨てになると、われわれは組織挙げて反対したが押し切られた。そして組織が持ち株会社を頂点に五つに分けられた。特に郵便局は集配をする郵便事業と、窓口の郵便局で会社が分かれた。お客さんからすると一緒なのに分断されている。住民サービスが低下する。2012年の改正民営化法で郵便事業と郵便局会社が合併し、4社に再編される。システム統合など作業の途中だが、改革もスピード化している」

2杯茶飲み話する「地域の核」目指して

―郵政民営化の際も議論になったが、民営となれば利潤を追求しなければならない。しかし、郵便事業というのは赤字でしょう。沖縄のような離島県で合理化されるのではないかとの懸念は大きかった。

 「郵便局は撤退しない、ネットワークは残す。県内には有人37離島中、25離島に郵便局はあるんです。そこは地域の核です。郵便局がなくなったら、郵便はもちろん、金融機能もなくなる。われわれは地域と寄り添い、地方創生の一翼を担うという使命があります。もちろん、離島や過疎地の郵便局は赤字です。黒字なのは都市部だけ。でも那覇で儲(もう)けて地方を支えないといけない。ユニバーサルサービスを維持するのも大変ですが、われわれの使命だと思っている」

 「社員の働く環境づくりもする。民営化以降、改革のスピードに追いつくために社員に無理をさせてきた。ゆとりのある仕事をさせて、そのゆとりで地域活動ができるようにしたい」

窓口で談笑する比嘉明男日本郵便沖縄支社長とスタッフ=那覇市の東町郵便局

―沖縄にとって郵政支社の役割は。

 「原点回帰ではないんですが、地域のためになるよう施策を一生懸命やります。私は農家の生まれですから、農業の大変さは身に染みている。それを支えたい」

 「たとえば、国頭郵便局長時代、マンゴーは黒い斑点があるとか形の悪さで売り物にならない。加工用は二束三文で農家は困っていた。それを集めて四国の郵便局で『訳ありマンゴー』と名付けて販売したんです。JAは正式に出している商品が売れなくなると難色を示したが、説得した。そうすると4万ケースが1日で完売。農家からは喜ばれましたね。今はパイナップルも出していますよ」

 「日本郵便の横山邦男社長は『現場、現物、現実主義』を唱えている。本社が上から目線で物事を決めるのではなく、現場の声を聞き解決策を現場から拾う。私のようなたたき上げが支社長になったのも、横山社長の現場主義の表れだ」

 「われわれは全国にネットワークを持っている。それを使って、地域のためになることをする。社員は地域活動にも取り組む。それが郵便局の役割です。げた履きでも来られるのが郵便局だ。地域のよりどころとなり、いろんな相談ができる。まさに2杯茶を飲んで話ができる郵便局にならないといけない」

聞き手 経済部長・島洋子

ひが・あきお

 1953年、国頭村安田出身。沖縄大中退。74年国頭郵便局の郵便外務採用。郵便配達を21年務める。東、国頭などの郵便局長などを経て、2014年に石川郵便局長主幹地区統括局長。18年6月から現職。地域活動としてやんばる地域活性サポートセンター理事長、県パークゴルフ協会連合会長など。ソフトテニス指導の功績で日本ソフトテニス連盟会長表彰など。

取材を終えて 役割 さらに重要に

経済部長・島洋子

 「官」のイメージの強い郵政職員像を覆す、押しの強さと率直さ。話が進むにつれ、目の光が強くなる。最も輝いたのは「現場主義」に話が及んだとき。

 「以前は本社の会議に出ても、各地から出席した地区統括局長たちは本社の話を伺うだけ。ものも言わずに会議は終わった。それでは何も変わらない。解決策は現場にあるんですよ。現場に最も近い私たちがものを言わんと」

 採用時から職種が分かれ、ほとんどが配達員で定年を迎えるという郵便局で、職種転換し、加えて積極的に地域ボランティアに取り組んだ。

 その姿勢が「現場、現物、現実主義」を打ち出す日本郵便の目標と合致しての抜擢(ばってき)だったのだろう。

 利潤追求が求められる民営事業だが、「郵便局は島からも過疎地からも撤退しない」と言い切る。その役割はこれまで以上に重要になると思う。

(琉球新報 2018年11月5日掲載)