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路上の量り売りから魚屋3世代「さばき方は父、目利きは母から学んだ」〈まちぐゎーあちねー物語 変わる公設市場〉13 跡継ぎの挑戦(5)花城綾さん、大濱梨沙さん


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自慢の魚介類を手にする「魚久鮮魚」の(右から)久高佐智子さん、花城綾さん、大濱梨沙さん=14日、那覇市の第一牧志公設市場

 路上で魚の量り売りをするたくましい女性。第一牧志公設市場の一角にある「魚久鮮魚」の創業者、故・國吉藤子さんだ。店は婿の久高唯光さん(69)と娘の佐智子さん(69)に受け継がれ、今は孫の花城綾さん(43)、大濱梨沙さん(38)が中心となり切り盛りする。

 藤子さんは闇市で義姉と一緒に魚を売り始めたという。1950年に牧志公設市場の精肉部・鮮魚部ができ、藤子さんらも店を構えた。2代目の唯光さんは約45年前に店を手伝い始めた。「國吉鮮魚」だった店名は久高の「久」の字を取って「魚久鮮魚」に改称した。

 唯光さんが継いだ頃は、せりを通さず漁師から直接仕入れる「浜買い」が中心だった。唯光さんは各漁港を訪ね、仕入れ先を開拓した。「漁師の言う値段が高ければ交渉し、海がしけていたら『大変だったでしょう』と高く買う。持ちつ持たれつだよ」。現在は各漁港でせりが開かれる。佐智子さんと共に名護市、恩納村、うるま市、読谷村、北谷町を回って仕入れる。

 客層は当初、公設市場周辺で商売をする女性たちが中心。夕飯用にアイゴやチヌなどを買った。公設市場の鮮魚部は店ごとに扱う商品が細分化されていた。お客の欲しい魚が自分の店になければ他店を紹介し、逆の場合は自分の店を紹介してもらう共存共栄の関係だった。

路上で魚の量り売りをする創業者の國吉藤子さん=那覇市(魚久鮮魚提供)

 その後、魚久は飲食店との取引が増え、アカジン、アカマチ、マクブといった高級魚の扱いを増やした。次第に大型店舗の増加や食生活の変化などによって地元客は減少した。今は観光客が中心だ。

 唯光さんと佐智子さんの次女・梨沙さんは中学卒業とともに店を手伝い始めた。それまで夜遊びばかりしていたが、父から「せりに行ってみないか」と声を掛けられた。「だらだらしているよりは仕事した方がいいかな」。この世界に入って20年余りになる。魚のさばき方は父から、目利きは母から学んだ。今では自他共に両親を「追い越した」と認めるほどの腕利きだ。常連からも梨沙さんにさばいてほしいと指名される。

 その後、長女の綾さん、三女の伊佐唯さん(32)も手伝い始めた。接客担当は主に綾さん。8年ほど前から外国人客が増えたが「今では英語も中国語も何となく聞き取れる」。唯さんは子どもが小さいため、現在は早く帰宅できる別の仕事に就く。それでも梨沙さんは「いずれ戻って来ると思う。自分一人ではできないし、3人で一つ」と強調する。

 市場の建て替えに伴い、7月には仮設市場に移転するが「お客さんの流れが変わる」と不安を隠さない。梨沙さんは「地元のお客さんも、もっと呼べるようになりたい」と前を見据えている。

(伊佐尚記)

(2019年5月21日 琉球新報掲載)