突然のことだった。約30年前、交際中だった女性の親や親戚5~6人が自宅に押し掛けてきた。「娘を返せ」。事情を問いただしたが、具体的な理由は告げられなかった。結婚後、妻から「あなたのお母さんがハンセン病だったから反対されていた」と聞かされた。
本島中部の60代男性は両親がハンセン病の患者だったことを理由に、幼いころからさまざまな偏見や差別を受けてきた。
父は3歳の時に他界し、母の故郷の島で祖母に育てられた。母は病を隠し本島で仕事を始め、離ればなれに。小学校のころはいじめられ、誰も家に遊びに来なかった。高校の時に義理の叔母と口論となり「居候のくせに」とののしられ家を飛び出した。「死んでしまいたい」と海に飛び込んだが、死にきれなかった。
同郷の妻の親戚らが母の病歴を知って結婚を反対したことで、故郷での生活を避けた母や自分自身への「差別」を確信した。
2001年、熊本地裁がハンセン病患者の強制隔離政策を違法と判決し、国の責任を認め、国は元患者らに謝罪した。原告の一人だった母は裁判を機に過去を語り始め、入所した療養所で父と出会ったことなどを教えてくれた。
男性は「国の過ちを伝えたくて母は話そうと決心したんだろう。これまで打ち明けられなかったことが本当につらかったんだろうと感じた。母を思うと自然と涙が出た」と振り返った。
しかし、約8年前、差別の根強さを突きつけられた。同僚に元患者の集会に参加する話を切り出した途端、露骨に嫌な表情をされ「遺伝するんでしょ」と言い放たれた。ハンセン病は遺伝もなく治る病だといくら説明しても聞く耳を持たなかった。職場で陰口を言われ疎外されるようになり逃げるように職を辞めた。
周囲に知られるのを恐れる毎日。それを変えたのは娘が5年前に高校の弁論大会でハンセン病についてスピーチし優勝したことだった。男性の母は妊娠した後に父と療養所から逃げ出し男性を産んでくれた。当時は患者の不妊手術や堕胎が強いられていた。
娘は祖父母の出会いや父の誕生を知り、今生きていることを「奇跡だ」と発表した。差別や偏見のない社会の実現を訴える堂々とした姿に心を打たれた。
「訴えなければ被害もなかったことになる。ハンセン病を忌み嫌う認識だけが残るかもしれない。連鎖を止めなければならない」
男性は国の責任を訴えることが社会にハンセン病のことを知ってもらう手段になるとの思いを強め、家族訴訟に参加。差別偏見と闘う覚悟を決めた。
(謝花史哲)
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ハンセン病家族訴訟の判決が28日に熊本地裁で言い渡される。ハンセン病に対する誤った認識により元患者の家族も偏見差別を受けてきた。原告561人のうち県内在住者が約4割と最も多い。判決を前に県内原告の被害の実態に迫った。