社会

小学校が火の海に…「事故を語っていいのか」 4姉妹が初めて明かした思い 沖縄の小学校に米軍機が墜落して60年

「宮森小学校の事故の記憶を埋めるピースの一つとして語りたい」と話す4姉妹の(右から)浦崎米子さん、佐敷美枝子さん、喜納由美子さん、福原節子さん=27日、那覇市

 1959年6月30日、沖縄県うるま市(旧石川市)の宮森小学校に米軍ジェット機が墜落した事故に遭った4姉妹がいる。同小6年生だった長女佐敷美枝子さん(71)、4年生だった次女浦崎米子さん(69)、3年生の三女福原節子さん(68)、小学校併設の幼稚園生だった四女喜納由美子さん(66)だ。姉妹は、あの日のことを忘れたことはない。「4人が持つ記憶はそれぞれ異なる。私たちが語ることで、あの悲惨な事故の記録になるならば」と、欠けていたパズルのピースを埋めるように事故の記憶を初めて証言した。

 あの日、美枝子さんがいた6年3組の教室は図工の時間だった。後ろの席の男児がジェット機の絵を黒く塗りつぶしているのを眺めていた。「これからは人工衛星の時代だから」と男児がつぶやいた瞬間、空がオレンジ色に変わった。

 3年生の節子さんは給食のミルクを飲もうとした瞬間に響く地響きに「戦争が始まったんだ」と思った。

 隣の教室の児童らが走って行く様子を見て、美枝子さんが慌てて廊下に飛び出すと階段は火の海だった。2階の窓から飛び降りて中庭に逃げ、米子さん、節子さんを見つけた。

 「お母さんが心配している」。美枝子さんは妹2人の手を強く握りしめて必死に家まで走った。服が燃え、ズボンのゴム部分しかない焼けただれた男児が「かあちゃんかあちゃん」と叫びながら走る姿を見た。門の近くで「うちの子、知らない?」と、泣きながら尋ねる女性に声を掛けられた。誰の声にも応える余裕はなかった。

 幼稚園生だった由美子さんは校舎裏の畑に逃げ、迎えに来た母芳子さんと共に家に戻った。4人全員、大きなけがを負うことなく無事だった。美枝子さんは「みんな無事でありがたい半面、そんな私たちが事故を語っていいのかという戸惑いもある」と明かす。

 事故は4人の心に傷を残した。節子さんは事故当時、転んでいる同級生を飛び越えて逃げたことを今も悔やむ。由美子さんは同級生の手に残る大きなケロイドを見て、申し訳なさから事故のことを話せなかった。

 当時は事故を起こした米軍を憎む気持ちもなかった4人。米子さんは「幼すぎて基地があるが故に起きた事故だなんて分からなかった」と語る。ただ、今ははっきりと分かる。宮森小の事故から60年たつ今も事件事故は相次ぐ。2017年には米子さんの孫が通う普天間第二小に米軍機の窓が落下した。基地があるが故の事故。「またか…」と怒りがこみ上げた。

 「わたしたちの記憶を語り継いでほしいとは言わない。ただ事故を忘れてほしくない」。美枝子さんがそう語ると、3人も深くうなずいた。
 (新垣若菜)

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 1959年6月30日、嘉手納基地所属の米軍ジェット機がうるま市石川(旧石川市)の住宅地や宮森小学校に墜落した事故から30日で60年がたった。児童12人を含む計18人が死亡、210人が重軽傷を負う大惨事となり、戦後の沖縄で最大の米軍機事故とされている。