社会

沖縄・宮森小米軍ジェット機墜落事故とは 識者の視点

比屋根 照夫(琉球大名誉教授)

 1959年6月30日、琉球大学内がざわついた。石川市に米軍のジェット機が墜落したらしい―。そんなうわさがさざ波のように伝わってきた。

 学生新聞会に所属していた私は、1カ月後ぐらいに現場となった宮森小学校に行った。規制線の奥の校舎は焼け焦げ、まるで戦場だった。遺族や、めいを亡くした琉大生の中屋幸吉君にも会った。関係者の悲痛な表情は今も忘れられない。50年代で一番悲惨で残酷な事故だったと思う。

 中屋君は小説「茂都子」の中の「姪(めい)の死」で「学園は、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の生地獄」と化し「人間の形相をすっかり喪(な)くした棒ぎれみたいな、焼死体」となっためいの姿が「深い傷痕(しこり)」を残し「思想の転機となった」と記している。

 当時の沖縄は米軍の絶対的な統治下にあり、治外法権、植民地状態だった。戦後の沖縄はどこに向かっていくのか、視界不良の中で起きた宮森小の事故は、現実の暴力からいかにして脱するかということを考えさせる一つの「引き金」になった。中屋君を復帰運動に駆り立て、自ら命を絶ったのも、米軍の絶大な権力に対する絶望からだった。

 戦後沖縄の歴史は、どの時代を見ても米軍に起因する事件事故が起きており、その都度、無辜(むこ)の民が犠牲になった。米軍の暴力によって非業の死を遂げた人々の、長い葬列の時代といえるのではないか。

 多くの犠牲が積み重なり、それまで点と点だった抵抗は線となり、面となって戦後沖縄の新しい民衆運動に発展した。この運動が、基本的人権すらないに等しい状態だった沖縄が平和憲法の下の本土に復帰する道を切り開いた。

 米軍による統治下では、県民が相対するのは直接、米軍だった。本土復帰は、沖縄の抵抗が米軍という厚い壁を突き破ったともいえる。翻って現在はどうか。沖縄に寄って立つべき日本政府は常に米国の側に立つ。米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に伴う新基地建設でも、県民が「ノー」という民意を示しても政府にないがしろにされる。なぜ、米軍統治下の復帰前よりも沖縄の民意が通じないのか。現在の沖縄は、宮森小の事故が起きた当時よりも厳しい立場にあるようにすら感じる。民意が無視され続ける現状には、民主主義の崩壊すらも懸念される。
 (比屋根照夫、琉球大名誉教授 政治思想史)



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