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次回作「舞台は沖縄」 なかいま強さん(漫画家) 〈ゆくい語り・沖縄へのメッセージ〉19


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自身のサインと「わたる」のイラストを描く漫画家のなかいま強さん=那覇市内

 1984年、「わたるがぴゅん!」で漫画家デビューを飾ったなかいま強さん(59)。メジャーな漫画誌で活躍する初めての沖縄出身ということに加え、沖縄ブーム以前の当時、全国でほとんど知られていない「沖縄方言」が飛び交う野球漫画は少年たちに強烈な印象を与えた。

 現在は沖縄を拠点に執筆活動を続けている。コミックスがシリーズ累計250万部を超える人気となったゴルフ漫画「黄金のラフ」は、このほど第2部の連載が終了した。

 「次は沖縄を舞台に若者たちの話になると思う。現場の実情みたいなものも絡めながら、本気で沖縄に取り組んでみようと思っている」と次回作の構想を明かした。

焦燥感抱く沖縄の若者 作品に

―生い立ちから聞きたい。

 「生まれは沖縄だけど、両親に連れられて4歳で和歌山県に引っ越した。4歳までの記憶はないとはいえ、両親とも沖縄の人だから家では沖縄方言でしか話さない。それで自分は沖縄の人間なんだということはずっと意識していた。中学3年の卒業前に沖縄に戻ってきた。親の話をずっと聞いてたから大体分かるだろうと思っていたけど、チンプンカンプン。今の若い子でも昔の人の使う言葉とは全然違って自分たちの文化じゃないですか。みんなが『チューバー』と言っているから意味を聞いたら『強いやつのことさー』と。まねしたつもりで『つよーばー、つよーばー』って使ったもんだから笑われてしまった。でも本当に面白かったんですね、沖縄の言葉は」

 「小学校から野球ばっかりやってきた。高校は浦添高で、豊見城高の石嶺(和彦)が同学年にいた。いつもベスト4とか8で豊見城と当たって負けるパターンで、そこさえ超えれば甲子園に出られたはずだけど壁は厚かった。大学も野球で呼ばれて沖縄大学に入った。でも結局、高校で壊した肩が治る見込みがなくって1年で中退した。高校までは何とかプロ野球に潜り込めないかなと内心思っていたのが、身長が止まって肩が駄目になったあたりでちょっとダメだなって。今まで野球しかやってこなかったからそこにしがみついて大学まできたけれど、いよいよ野球は終わりだと諦めをつけた。あと何かやり残したことはないかと考えた時に浮かんだのが、漫画だった」

―漫画の影響は。

 「漫画は子どもの頃から好きで教科書やノートに絵を描(か)いていた。影響を受けたのはちば兄弟。小学校の頃に『キャプテン』にはまって、中学校では『あしたのジョー』を読んで漫画って一人の一生をこんなにも感動的に描くことができるのかと衝撃を受けた。漫画家になりたいという気持ちが自分の中に芽生えたのはそこからかな。高校では鉛筆描きでコマ割りしてストーリーを描いたノートをクラスに回して、感想書いてもらう。それが俺の知らないうちに学校中を回って、戻ってくると感想がどっさり書いてある。『俺に原作やらせろ』って理解してくれる友達もいた。そいつ宮城正って言うんですけど、ガッパイ宮城(デビュー作『わたるがぴゅん!』のサブキャラクター)のモデルです」

25歳期限で親を説得 本土の目線で描いた

東京でのデビューを経て、現在は県内で「はいさいプロダクション」を立ち上げて作品を生み出しているなかいまさんの仕事場。顔写真はNGのところ、似顔絵を描いてもらった=那覇市

―ちばあきおのアシスタントを経てデビューする。

 「両親は農連市場で八百屋をやっていて、長男なので大学をやめたら継ぐことになる。漫画に挑戦してダメなら八百屋をやればいいという感じで、書き置きだけ残して家出した。上京していた友人のアパートに転がり込んでいたけどすぐに親に見つかった。とりあえず3年は働いて親を安心させようということで、東京で卵の卸会社に勤めた。23歳になる寸前で会社を辞めて、親には『25歳までに漫画家としてデビューできないようだったら帰って仕事を手伝う』と納得させた。ちばあきおさんが描いている月刊ジャンプの編集部に作品を持ち込んで、アシスタントの口を紹介してもらった。みやたけしさんやあきおさんのアシスタントをしながら、これがだめだったら俺は沖縄に帰るかもしれませんと、ちょっと脅しもかけて編集者に渡した原稿が『わたるがぴゅん!』だった」

―「わたる―」の連載開始が1984年。沖縄ブームのはるか以前で、メジャーな漫画誌に沖縄の方言が飛び交う漫画が登場したのは衝撃的だった。

 「僕自身が和歌山から沖縄に来て、全然分からない言葉のところに入れられた。でもそこで面白い言葉だと興味を持った。これを漫画で紹介したら絶対面白いという確信は持っていたけど、やっぱり当時はまだ沖縄のことが本当に受けるのかというのもあった。ただ、25歳の期限が迫っているでしょ。これが最後の作品になるかもしれないと思ったら、自分の持ってるものを全部入れてそれでだめだったら諦めをつけるしかなかった。野球しかやってこなかったから題材は野球だ。沖縄ということは俺の特徴でしかない。なら主人公は沖縄でいいじゃんって。ただ、舞台を沖縄にして全員を沖縄にしたら、壁ができて沖縄以外の人はそこに入ってこられない。だから沖縄の人間を東京に持ってきて、そこで旋風(せんぷう)を吹かせる。言葉の中に『カンパチ』とか『がっぱい』とかの単語がぽこっと入ってくると引っかかるでしょ。分からない所に引っかかってくれたら興味が出る。そこに注釈で説明してあげれば分かりやすい。僕は沖縄なんだけれど、沖縄から沖縄の人を見る目じゃなくて本土の人から沖縄の人間を見る目で描けるというのがあった」

「沖縄だけ」抵抗あった 次作で本気に取り組む

―「黄金のラフ」などヒット作を飛ばしてきた。一方で「わたる―」以降は、沖縄が題材に出てくる作品はあまりない。

1999年からビッグコミックに掲載された「黄金のラフ」の単行本

 「沖縄だけを売りにしている作家になってしまうのはちょっと抵抗があったから、『わたる―』が当たったからまた沖縄の主人公でっていうことは考えてなかった。スポーツ漫画は編集の要望があるからというのもあるけど、やっぱりスポーツを通した方が気持ちが描きやすいのかな。『黄金のラフ』は俺がゴルフを始めたもんだから当時の編集がゴルフ漫画やりませんかって誘ってきてそれに乗った。ゴルフをやっていない人が、ここはこうやればいいのにと感じることを実際にやっちゃうプロがいてもいいんじゃないかって、ゴルフに対して素人目線で描いた作品。ゴルフをやっていない多数派を引き込めたんじゃないかな」

―今後の活動について。

 「次の作品は沖縄を舞台にするつもり。沖縄の若者たちの話になると思う。今の若い人って焦燥感を覚えているというか、俺たちの若い時みたいに夢を語らない。将来に投げやりな感じがあるように僕は受け止めている。まあまあ生活できればいいとか、友達と毎日酒飲めればいいや、おいしいもん食えればいいやというね。そう思っている若者が主人公になると思う。その子たちがいかに夢を持つか。沖縄の実情みたいなものも絡めながら、本気で沖縄に取り組んでみようかなとちょっと思っている。夏を目安にって言ってきてるけど、どんどん遅れてるな(笑)」

聞き手 経済部長・与那嶺松一郎

なかいま・つよし

 1960年4月13日、那覇市生まれ。沖縄大学中退後に上京し、ちばあきお氏のアシスタントなどを経て、84年に「わたるがぴゅん!」で連載デビュー。沖縄から東京の中学に転校した主人公・与那覇わたるが野球部を全国大会に導く物語を痛快に描き、月刊少年ジャンプで2004年まで続く人気を誇った。ほかに「うっちゃれ五所瓦」「ゲイン」「ライスショルダー」などスポーツ漫画を中心に活躍。99年にビッグコミックで連載が始まったゴルフ漫画「黄金のラフ」も4月にパートIIが大団円を迎える長期連載となった。

取材を終えて 「沖縄力」示した先駆者

経済部長・与那嶺松一郎

 ジャンプ全盛期ど真ん中世代の私にとって、漫画家なかいま強とは安室奈美恵さんにも匹敵する、沖縄をエンパワーメントした先駆者であり、アイドルだ。

 「わたるがぴゅん!」の連載開始から35年、現在は沖縄で作品を描いていることを知り、「黄金のラフII」が終了のタイミングでインタビューを申し込んだ。野球を諦め漫画家になろうと上京したいきさつ、師と仰ぐちばてつや・ちばあきお兄弟との交流など、自身の漫画からそのまま飛び出したような明るく豪快な語り口で、貴重な話を余すことなく語ってもらった。漫画に対する熱い思いにこちらも少年の心に引き戻されて聞き入った。

(琉球新報 2019年7月1日掲載)