社会

末の妹を置き去りにして逃げた 「水もなく乳も出ない…」母の苦悩を胸に 南洋へ慰霊の旅を続けるきょうだい

多くの民間人を犠牲にした戦争に強く憤り、反戦を訴え続けてきた崎浜秀晴さん(左)と洋子さん。母の思いを受け継ぎ今回も慰霊の旅に出る=23日、本部町崎本部

 母は山の中で生まれて間もない6人きょうだいの末っ子を岩のくぼみに置いて立ち去った。赤ちゃんのその後の行方は分からない。1944年6月、太平洋戦争で米軍がサイパンに攻め入り、穏やかな日常は一変した。激しさを増す艦砲射撃から逃げ惑う中、連れ添うほかのきょうだい3人を救いたい一心で母が下した決断だった。

 名前はさえこちゃん。当時4歳の次女崎浜洋子さん(80)=本部町=と2歳の三男秀晴さん(77)=同=は、その時の様子も妹の顔も覚えていない。35年前に亡くなった母が生前に幾度となく語り聞かせてくれたため、2人はサイパンでの悲惨な戦争体験を「記憶」としてとどめている。

 崎浜さん一家は漁師だった父を追い掛けて37年にサイパンに移住した。2年後には本部町に残っていた長男の秀市さんも来島し、洋子さんら3人が生まれた。秀市さんはサイパン実業高校、姉の和子さんはサイパン高女へ入学。将来が期待された。しかし秀市さんは卒業後、軍の整備員となり、戦争で生き別れた。どこで亡くなったか不明のままだ。

 「水もなく乳も出ない。このままではどのみち助からない。もしかしたら誰かに救われるかもしれない」

 次男の秀司さんは避難中にはぐれてしまっていた。母は全員の死を覚悟しながらも、子どもたちを守るため赤ちゃんを手放した。


戦前のサイパンで撮影された崎浜家の家族写真。中央が長男秀市さん、左端が次男秀司さん、右端が長女和子さん。秀晴さんは出生前で、洋子さんは母に抱かれている

 その後、洋子さんと秀晴さんの2人は姉の和子さんに背負われたり手を引かれたりして、母と共に島の北端へと追いやられた。多くの人が崖から海へ身を投げていた。和子さんも飛び込もうとしたが、母が止めた。山中に引き返した後も和子さんは首をくくって死のうとした。この時、洋子さんは「洋子は死なないよ」と叫んだという。それが効いたのか和子さんは一命を取り留め、米兵に見つかった4人は収容所に入れられた。4カ月後、家族とはぐれていた秀司さんと再会を果たしたが、長男は帰ってこなかった。

 「生きている間は兄や妹を弔ってほしい」。長男秀市さんと末っ子のさえこちゃんを亡くした洋子さんと秀晴さんらきょうだいは母の遺言を胸に、慰霊の旅を40回以上続けてきた。

 一緒に母を支え、サイパンへの思いを寄せた次男の秀司さんも今年2月に87歳で亡くなった。秀晴さんは「戦争がなければ、母も苦労なんてしなかった」と75年の歳月を振り返る。

 「優秀で自慢だった長男」(洋子さん)を失った家族の悲しみは特に深く、母は自ら体験した戦争の悲惨さとともに反戦への強い思いを語り続けた。長兄を慕っていた秀司さんは教員となり「教え子を2度と戦場に送らない」との思いで教べんを取ってきた。姉の和子さんと洋子さんも教員になり、戦争の教訓を広げようと取り組んだ。


 今回は兄と妹の慰霊と合わせ、2人に秀司さんの死去を報告する旅となる。秀司さんの遺骨の一部を散骨し、兄と妹のそばで眠ってもらう予定だ。

 サイパンとテニアンの戦闘終結から75年。基地の問題を巡り昭和天皇が「一部の犠牲はやむを得ぬ」との認識を示していたことが明らかになった。秀晴さんは「国を守るための一部の犠牲は戦争の時から続き、沖縄に負担を強いる構図が今も続いている」と憤る。

 復帰前から慰霊の旅を続け、戦争の教訓や平和への思いを発信してきた帰還者たち。しかし高齢化に伴い参加者は年々減少し、当時の学童たちは80歳を超えた。悲惨な戦争の記憶が薄れてしまわないか。懸念が膨らむ中で2度と同じ過ちを起こさないことを祈り続けている。
 (謝花史哲)

   ◇   ◇   ◇

 旧南洋群島サイパン・テニアンの戦闘終結から今年で75年がたった。戦争で犠牲となった家族が眠る、もう一つの古里。50回目の節目となる現地慰霊祭が27、28日開かれ、組織的な墓参りは終了する。慰霊の旅を続けてきた帰還者たちの思いを追った。









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